ガラガラッ
「失礼しますっ」
容赦なく思いきりドアを開けた保健室には、一切の人の気配がなかった。一般的な保健室には、大抵の場合養護教諭か保健委員がいるものだけれど、お昼休みだからだろうか。
「でも、丁度いいや」
誰もいないのなら、それにこしたことはない。そう思い、私は泥棒よろしく、棚の上に置かれていた持ち出し用の救急箱と使い捨ての保冷剤、それに空っぽの容器に冷たい水をたっぷりと詰め込んで、保健室をあとにした。
「リボーンくん、ツナ!無事…」
ドガァン!!
保健室からできるだけ急いで辿り付いた応接室に、入ろうとした直前。爆音は私を嘲笑うかのように響き渡った。
遅かった。間に合わなかったんだ。
あまりの自分の不甲斐なさに、手に持った救急箱の重さで膝をつきそうになった。だめ、だめだ。弱りかけた自分を無理やり叱咤して、止まった足をまた動かす。
応接室が爆発したあと、彼らがいた場所はどこ?コミックを読んでいたときの記憶を必死にひっくり返して、階段をかけのぼる。再び、戻ってきたその場所に、予想通り彼らはいた。
「あ…」
「ツナ…!」
屋上で、唯一意識を保っていたツナが、私に気付いて振り向いた。死ぬ気になったあとだから彼はパンツ一枚で、それに気付くと照れくさそうに曖昧に笑う。
傷らだけの、顔で。それでも彼は、笑うのだ。
「バカ…っ!」
「え?」
「怪我、見せて」
いきなりのことに困惑を隠しきれていないツナだったけれど、有無を言わさず出来る範囲の応急処置にとりかかる。頬とあごの切り傷。それに、爆発に巻き込まれたせいで出来てしまったんだろう、両腕の軽い火傷。幸いというべきか、コミックのとおり大きな怪我はないみたいだ。よかった。本当に、よかった。
「…オレ」
「…怪我、軽くてよかった」
「っ、」
手当てを終えたツナには使い捨ての保冷剤を渡して、私は意識を失っているふたりの処置にかかる。正直、応接室で倒れていたはずのふたりをどうやってここまで運んできたのかは激しく謎だけど、きっと彼には不可能なんてほとんどないんだろう。ツナよりも、怪我自体は軽いふたりの状態にほっと安堵の息を吐き、そんなことを考えた。
そして、不可能を可能にする赤ん坊が屋上に現れたのは、ふたりの手当てに一段落がついた頃だった。
「手当てはすんだみてーだな」
「リボーンくん…」
「気にすんな。お前は、なにも間違ってねーんだ」
リボーンくんは、まるで先回りでもするように優しく言った。ああ、そっか。彼には全部、わかってしまっているんだ。読心術。そんな言葉が頭を過ぎったけれど、きっとそれだけではないような気がした。もっと、根源的な何か。リボーンくんは、それを知っているような気がした。
「それよりな、」
「なに?」
「あいつも怪我、してたぞ」
「あ…」
にやり。小さなヒットマンの口元に、魅惑的な笑みが浮かぶ。特定されない名称に、保冷剤を患部に当てるツナは不思議そうに首を傾げていたけれど、私には十分だった。
でも、どうする?私は、どうしたいんだろう。
そんなことを悩んだのはほんの数拍で、決断してからの行動は早かった。救急箱と一緒に持ってきた水を、自分のハンカチに含ませて軽く絞る。本当はガーゼの方がいいけれど、なんとなく、ハンカチの方が受け取ってくれるような気がした。たぶんそれは、あの夏の日の記憶が、まだ私の中には根付いているから。
「ツナ。私ちょっと、行ってくる」
「えっ?行ってくるって、」
「山本くんと獄寺くんのこと、よろしくね」
「あっ、ちょっと!!!」
静止するツナの言葉を振り切って、ハンカチを片手に私はさっき来た道を引き返す。
本当は、ちょっとだけこんな行動を選んでいる自分が、バカみたいだって思わないわけじゃなかった。だって、変だよね。あの時はあんなに、怖いって思っていたくせに。
初めてあった夏の日だって、運良く咬み殺されずには済んだけれど、彼が去ったあとで腰が抜けるくらいに怖がっていた。始業式があった日は言葉を遮って全速力で逃げてしまったくらいだし。
怖くない、なんて嘘は吐けない。だって、怖いことは事実だから。私が生きてきた二十四年間の中では、あんなふうにトンファーを振り回す人間なんて映画やドラマの向こう側にしかいなかったし、喧嘩だってほとんどしたことがないから、痛い思いだって好きじゃない。護身術を習っていたおかげで普通の女の子よりは強いかも知れないけれど、それだって変質者を撃退できる程度だし。
そんな、どこにでも当たり前にいるような私が、強さにプライドを持っている彼の前に自信をもって立てるわけがない。そんなの、誰に尋ねたって「当然!」と太鼓判を押されるくらいに明白な事実だ。
けれど、
「雲雀恭弥!」
名前を呼ぶと、振り返る黒髪。綺麗な横顔。抑揚の少ない表情。
けれど彼は、私が直接出逢った彼は、一度だって私に拳を振り上げたりなんかしなかった。
夏の日も、口では咬み殺すと言っていたけれど、結局ハンカチを攫っていっただけで見逃してくれたし、お願いした通りに救急車まで呼んでくれた。
始業式の日だって、あんな失礼な態度をとってしまった私を追いかけてくることもなかったし、その後で呼び出したり、他の風紀の人に怒られたりすることもなかった。考えてみればあの時の放送だって、ホームルームが終わり生徒が疎らになってから鳴ったのだ。私が、帰ってしまう可能性だってあったのに。
「ああ、君か。どうかしたの」
「…これ」
蘇ってくる記憶。あからさまな既視感。差し出したハンカチを、雲雀恭弥は訝しげに見つめていた。
雲雀恭弥は、怖い。この気持ちを、なくすことはきっとできない。
でも、だからって私には、雲雀恭弥を嫌いになることも、できなかった。
コミックの中、動いている彼のことが大好きだったわけじゃない。そりゃ、横暴なだけの人じゃないってことは知っているし、小鳥が懐くような可愛いところがあることだってわかってる。表情があまり出ないところとかはちょっとに似ているかな、って思ったこともあるけれど、私が好きだったキャラクターは山本くんとビアンキさんで、そこに雲雀恭弥は一度だって入ってこなかった。
だけど、私の目の前で、今呼吸をしている彼は、違う。
ツナと出逢った時にも感じた。私がいた世界で見ていた彼らと、こうして触れ合う彼ら。とても似ているし、世界の進み方まで共通点ばかりだけれど、それでも全然、違うんだ。
「また、ハンカチかい。君、僕にハンカチを渡すのが好きなの?」
「違います。これ、頬の傷に当てて。なんにも処置をしないでいたら、腫れるかもしれないから」
「…君、見てたの?」
「リボーンくんに聞いたの。見ていたなら、その場で渡してる」
「そう」
応接室の前の廊下で向きあう私と雲雀恭弥の図は、周囲にはいったいどんなふうに映るんだろう。咬み殺される直前の女子?それとも、無謀にも雲雀恭弥に喧嘩を売っているつわものとか。どちらにしても、とても友好的な関係には見えてないはずだ。実際、友好かどうかと聞かれたら、イエスなんて到底答えられないし。
でも、私は思うのだ。
怪我をした男子生徒に、ハンカチを渡す同級生。
そう、映ったっていいんじゃないか、って。
「…雲雀?」
同級生だったら、きっとこんなふうに呼ぶかなと思って、フルネームから下の名前を省いてみる。口にすると、思ったよりもしっくりきて面白かった。
怖くない、なんて嘘。でも、そんなふうにいくら思ってみたって、きっと雲雀が同じ並中に通う、同級生であることには変わらない。実年齢は二十四歳の私だけれど、外見では中学二年生。そして、来年も並中にいる雲雀も、同じなはずだから。
本当は、厄介ごとなんて嫌だから、関わらないのが一番なんだってわかってる。でも、また別の場面で、怪我をしている彼を見つけたら、声をかけずにいられる自信なんて、私にはなかった。だって、私はそのために薬剤師になったんだから。 ―――― 傷ついている誰かを、無視しないで済むように。
「君は、」
差し出したままのハンカチを見下ろして、雲雀はぽつりと呟いた。あ、やっぱり綺麗な声。本当に、鳥がうたっているみたいだ。
「君は、僕のことを知っていたね。あの、夏の日から」
「! 覚えて、たの?」
「僕が一度見逃した獲物を忘れると思う?」
「…見逃したから、忘れてるんだと思ってた」
「それで、返事は?」
「…うん。知ってたよ。理由と方法は言えないけど、雲雀のことは逢う前から、知ってたの」
答えると、雲雀は切れ長の瞳を細めて、口の端をちょっとだけ緩めた。まるで、笑っているみたい。見惚れるくらいに、綺麗だった。
「君は、本当に変わってるね」
あの夏の日とは少しだけ変わったシチュエーション。雲雀は、それだけ口にするとあの日と同じように私の手からハンカチを攫っていった。
けれど、それでもやっぱりあの日と今日は違うから。ハンカチを片手に私に背を向けた雲雀は、途中でふと足を止めてこちらを向いた。
「またね、」