「んじゃ、始めっか」
山本くんのかけ声でようやく勉強に取りかかることができたのは、昼下がりも少し過ぎてしまったころだった。
お昼ご飯を食べたあとですぐに取り掛かれればよかったんだけど、気が付いたら食後の後片付けまで手伝ってもらってしまっていたのだ。すごく自然にだったから遠慮する暇もなかったし。残っていた食器類も綺麗に食器棚に収まって、こちらとしては大助かりだけどやっぱり申し訳ないなと思ってしまう部分も多い。今度、また何かお礼をしなくては。
机の上に広げられたのは、ふたり分のプリントに教科書。それから、シャーペンに消しゴムに、獄寺くんの眼鏡もあった。それに加えて人数分の飲み物とふたりが持ってきてくれていたお菓子を適当に広げたら、コミックそのままの勉強机の出来上がりだ。まあ、場所が家の居間で、ひとり人数が増えてるっていう違いはあるんだけど。
「ツナの方は獄寺くんが見てくれるから…私は山本くんだね」
「おう、よろしくな!」
「精一杯がんばらせて頂きます」
そうは言ってみたものの、私で本当に大丈夫なのかなと不安がなかったわけじゃない。だって、中学の勉強なんて最後にやったの何年も前の話だ。そりゃ、全部忘れてはいないだろうけれど、人にものを教えられるくらいに覚えている自信はさすがになかった。…というか、問七(だったよね)みたいな大学生レベルとか出ても、絶対解けないって断言できる。一応理系だったけど、ねこじゃらしの公式なんて知らないし。
とりあえず今どのあたりをやってるのかを確認するためにと、山本くんにプリントを見せてもらう。…あ、よかった。これなら大丈夫そうだ。プリントの上に書かれた一次方程式と関数のグラフを見てこっそり安堵の息を漏らしてしまった。もう一枚の理科も得意な科学の範囲だし、プリントを解くくらいならなんとかなるだろう。
「じゃあ、とりあえず一通りやってみてもらおうかな。そのあとで見直ししよっか」
「だな。多少は自力でやらねーと意味ねーし」
「素晴らしき心がけです。というわけで、教科書も最初はなしね」
「うげ…」
引き攣った山本くんの抗議はきれいに無視して「はい、スタート」。合図を送れば山本くんはシャーペンをくるりと回してプリントに向かった。
山本くんがプリントに向かっている間、彼の教科書を眺めながらちらりと残りのふたりの様子を伺った。最初は私に教えてもらう、って来てくれたツナだったけれど、獄寺くんからその役目を奪うわけにもいかないし。ついでに言えば山本くんに獄寺くんが勉強を教える図、なんてものも想像できなかったのでこんな配置になったのだけど…
(獄寺くん…教えるの、苦手なんだっけ)
眼鏡をかけてツナに教科書を朗読する獄寺くんを見て、そんなことを考えた。そういえばコミックでそんなふうに描写されてたっけ。まあ、確かに教科書に大抵のことは載ってるんだけどね。だけど、残念ながら教科書だけではわからないらしいツナは、眉間に皺を寄せてプリントとにらめっこするばかり。…でも、私だって教え方が上手いわけじゃないし、あんまり手助けはできそうにないかな。
「、いいか?」
「んーあ、もう終わったの、山本くん」
「とりあえず一周な。でも、やっぱ全然わかんねーや」
随分早いなぁと思って時計を見てみれば、スタートの合図から随分と時間が経っていた。どうやら、ツナと獄寺くん観察に熱中し過ぎていたようだ。
手渡されたプリントにざっと眼を通すと、確かに山本くんの言葉通り解答欄の白い部分が目立っていた。あ、でも答えているところは全部合ってるみたい。基礎がちゃんと出来てるのなら、問題はなさそうだ。
「解いてあるところは全部あってるみたい」
「お、やったぜ!」
「基礎もちゃんと理解できてるみたいだし…解けなかったところ、もう一回やってみようか。今度は私が横から口出しするね」
「りょーかい」
口出し、といっても本当に簡単なヒントを出したくらいだったけれど、それだけで山本くんはプリントの空白部分をすいすいと埋めていった。うん、やっぱりコミックの通り。勉強する時間がなくて成績は悪いけれど、理解力が悪いわけでも応用が利かないわけでもない。天は二物を与えず、なんてよく言うけれど、やっぱりあの格言は例外もありそうだ。男の子らしく端整に整った、素直に格好良いと思えてしまう山本くんの真剣な横顔を盗み見ながら、そんなことを考えてしまった。
「?どーかしたか?」
「え、えっ!な、なんでもないよ」
「そっか?なんかオレの顔、すっげー見てただろ」
「あ、うん。山本くん、格好良いから、学校で女の子たちが放っておかないだろうなーって」
素直な感情を口にしただけだったのに、ぴたりと止まった山本くんの手。あれ、私なにか変なこと言ったかな。格好良い子に格好良いって言うのは…失礼にはならないよね、うん。
「山本くん?」
「あーいや、うん。ってさ、変わってるよなー」
「…そう、かな」
「ぜってー変わってるって」
いや、そこまで太鼓判を押さなくても。
色々と突っ込みたいところもあったけれど、再びシャーペンを動かしはじめた山本くんの邪魔をするわけにもいかず。広げたままだった山本くんの教科書にもう一度視線を落として、忘れかけている記憶を呼び起こす。
小学生。中学生。高校生。大学生。社会人。
勉強のことを思い出そうとしてるのに、頭に浮かんでくるのはやっぱりの顔ばかり。普段の無表情に、時折みせるはにかんだ顔。静かにむすっと怒った顔とか、視線を斜めに落として少し照れた表情も好きだった。あと、お気に入りのピアスと時計の話をしてる時のキラキラした瞳も。目を閉じなくたって、鮮明に思い出せるくらい、ずっと見てきたんだ。
ああ、私。こんなにのこと、好きだったんだ。自分でも、全然知らなかった。隣にいることが当たり前すぎて、考えることもしていなかった。
なんで今こんなこと考えちゃってるんだろうって自分で思うくらいに場違いな思いを捨て去りたくて、必死になって目の前の数字に集中しようとした。けれど、一度浮かんだ懐かしさが中々消えなくて、このままだと泣いてしまいそうだったから「ゴメン、ちょっと」と席を立つ。
「涙腺…ちょっと、緩すぎだよ」
居間から出たところで、ぽつりと呟いてしまった。部屋を出たとたん、床に滴が落ちてしまったのだ。大人なのに、ほんとに情けないったらない。
仕方がないから洗面所で顔だけ洗ってこよう。そう思って足を向けたら、REBORN世界に迷い込んでからまだ一日(正確には経ってないけど)にもかかわらず聞きなれてしまった本日三度目のあの音が、家の中に鳴り響いた。
今度はいったい誰だろう。返事ひとつ返して、ドアを開けた私はついさっき反省したばかりのことを再び思い出していた。そういえば、さっきふたりが来た時も、同じタイミングじゃなかったっけ。あの時は洗濯かごを持ってたような気がするけど。
「お、お、お、お、女の子さんですー!!!」
ドアの向こう側で思いっきり驚きを表現してくれている美少女さん(三浦ハルちゃん、だったよね)にばれないようにこっそり泪を拭いつつ、今日の騒動はもうちょっと続くのかなー、とか、でもこんな可愛い子とお知り合いになれるんだったらいいかな、とか現金極まりないことを考えてしまった。うーん、確かに山本くんのいうとおり、私ってちょっと変わってる…のかも。
この後で、ハルちゃんに私とツナの関係を必死で説明したり、獄寺くんとハルちゃんのツナの家庭教師争奪戦が行われたりしたのは、またちょっと別のお話。