「ーここの皿、洗っちまって大丈夫か?」
「うん、お願い。スポンジと洗剤はシンクに置いてあるから。こっちが終わったらすぐに手伝うよ」
「…おい。こっちの、適当にしまうぞ」
「食器棚の下が空いてるから、そこによろしく」
「ーこのダンボール、の部屋に持ってっていいよね」
「あ、まってツナ!それ、重いから私が運ぶよ!」
昨日の夜は私一人しかいなかった静かな家だったはずなのに、いつのまにやら賑やか大家族な仲間入り。ってくらいに活気に溢れた雰囲気に、複雑な思いのまま通話を終えたばかりの受話器を戻した。
けれど、実際問題作業効率は激増で、テレビの横に何段も積んであった(どうして一人の引越しにこんなに!)ダンボール箱も、今やほとんど空になっていた。
ちなみに、箱の中身は七割が料理道具と食器、服飾類で、残りの二割が書籍、一割が日用品だった。日用品の中に紛れ込んでいたまっ白な手帳の中に、銀行の暗証番号とか書いてあったときには「なにやってんの、こっちの""!」と思わずにはいられなかったけれど、それ以上に無駄に多い洗いものをみると、手伝ってもらってよかったな、と密かに思ってしまう。だって、あれだけの量をひとりで解いて洗ってしまうのに、どれだけ時間がかかるのか想像もつかない。ざっと見ても、おそらく三世帯家族が余裕で過ごせてしまいそうな量の壊れ物。…本当に、なにを考えてこんなに用意したんだろう。
「山本くん、代わるよ」
「ん?そっち、もう終わったのか?」
流し台に向かって泡の溢れるスポンジ片手に大量の食器を洗う山本武くん、の図はちょっとばかり意外だけど妙に似合っていて格好よかった。この子、本当に中学一年生?と何度目かわからない疑問が頭に浮かぶ。野球、やってるとこんなに身長伸びるものなのかな。でも、おんなじ野球部だったはもっと小さかった。目線の高さは高校になるまで私とほとんど変わらなかったはずだ。…ということは、山本くんだから、ってことか。
「とりあえず、選別は済んだから」
「部屋の荷物だろ?ちゃんと片しといた方がいいぜ」
「でも、怪我してる山本くんに洗いものばっかりさせるわけにはいかないよ。ツナが今、本棚の整理してるから、そっちをお願いしてもいいかな」
積める本はもう棚の側まで持っていってあるから、あとは左手だけでもできるよ。
言外にそんな意味を込めて告げると、山本くんはほんの少し目を丸くした。…なにか、変なこと言ったかな。
「…どうかした?」
「いや…オレ、に怪我のこと言ったかなーって思ってさ」
「そんなの、包帯を見ればわかるよ。それに山本くん、右利きなのにさっきからあんまり右手使ってなかったし」
利き腕はスポンジを持っている手を見ればわかるし、右手を庇っていることはたとえ包帯が無かったとしても荷物を運ぶときの仕草を見ていれば簡単にわかる。これでも二年間薬剤師として医療系の施設で働いていたのだ。分野はちょっと違うけれど、怪我や病気をしている人の数はかなり見ているから、目だって養われてる自信はあった。
それに、山本くんはほんの一月前に、腕を折ったばかりだと私は知ってる。勿論これは、まだ""が知らないはずのことだから、言えないけれど。
「無理して悪化したら大変だから。それに、適材適所で分担するのは当然でしょ」
得意なものは得意な人に。勿論いつも出来るわけじゃないけど、可能なときはできるだけそうした方が良い。が私に社会の勉強を教えてくれた時の言葉だ。いつも、なんて無理だけど、その考え方は納得できるものだったし、私自身もそうであったら良いなと思えたから、出来るかぎり実践するように心掛けてる。ちなみに、社会を教えてもらったときの借りは、の苦手な理科を教えたことできっちり返した。素晴らしき、適材適所だ。
だから、私からすれば特別でもなんでもないことだったのに、山本くんは意外なものを見るような目で私を見下ろすと「悪いな」と苦笑した。
「じゃあ、ツナの方手伝ってくるわ」
「うん、よろしく。…ツナだけだと、悩んで進まなそうなんだよね」
「ははっ!あいつ、妙なとこ真面目だもんなー」
「ほんとにね。適当に詰めてくれれば構わないのに。あ、それと」
「んー?」
「重い荷物運ぶときは呼んでね」
告げると、山本くんは曖昧な表情を浮かべて頭を掻く。泡で埋まった右手を流していた最中も、濡れた手をタオルで拭いているときも続いていたその顔が解けたのは、彼が流し台から離れようとしたときだった。ちょんちょんと私の肩を叩いて、山本くんは言った。
「力仕事はさ、さすがに任せてくんねーかな。怪我してても、一応オレ、男だしさ」
そこんとこ、よろしくな。爽やかに笑った少年は、あっさり告げて私の前を去った。
「……天然タラシだ」
洗剤を流す水の音に隠れるくらいに小さな声で、思わず呟いてしまった。だって、あんなことさらりと言える?少なくとも、私がこれまで逢ったことのある男性は誰も言えなかった。それも、なんの下心も感じさせずに言えてしまうところが更にすごい。
あれはもう、一種の才能だよね。山本くん節、みたいな。カチャリ、洗い終えた食器(全体の一割程度)を一先ず水切りに重ねて、水を止める。次の洗いものに入る前にさっさと拭いて片付けてしまおうと思って布巾に手を伸ばしたら、直前で誰かに奪われてしまった。
「獄寺、くん?」
「…食器棚、適当にしまうぞ」
「あ、うん。お願い、します」
戸惑いつつも「ありがとう」と伝えると、獄寺くんはそっぽを向いて無言で洗い終えたばかりの濡れた食器を拭き続ける。滴を残さないように丁寧に水気を拭って、サイズと種類で分類して。想像以上に几帳面な扱いに、無意識のうちにじっと獄寺くんの手元を凝視してしまった。
「オイ」
「え?」
「手、止まってんぞ」
「あ、ごめん」
指摘されて慌ててスポンジを動かすと、小さな舌打ちが耳に届く。きっと、こういう態度を取るから周囲に「怖い」とか「不良」とかって見られてしまうんだろうな。
「……あれ?」
食器同士が重なり合う、甲高い音が耳に届く。手の力が抜けて、お皿を落としてしまったせいだ。幸いにも食器が割れた気配はない。耳聡く反応を示した獄寺くんに「なんでもないよ」と返事をして、すぐにまた手元の洗い物に視線を向ける。
なんだ、これ。なんでこんなに普通なの?
まだ若干固めのスポンジの感触と、生温い水の温度。耳に届くのは獄寺くんが食器をしまうカチャカチャという音と、息を呑んだ余韻。
ねえ、おかしいよ、私。だって、逢ったばっかりなんだよ。初対面で、まだ名前くらいしか自己紹介だってしてないのに ――――――― どうしてこんなに、受け入れてるの?
私だけじゃない。山本くんはともかくとして、あの獄寺くんが何も言わずに手伝ってくれてる、それだっておかしい。ツナが手伝うっていったから?これが終わらないと勉強ができないから?ううん、そうだとしてもなにひとつ文句を言わないなんてやっぱり変だ。じゃあ、なんで。
「……イ、オイ!」
「っ!!」
「お前、なにやってんだよ!水、流しっぱなしだぞ」
「あ…」
気が付けば、眉間にしわを寄せる獄寺くんが隣にいた。いまだ、呆けた私の代わりに流しの水を止めて、見下ろす視線が向けられる。不思議だ。そこには、あるべきはずの苛立ちが欠片もなかった。
「ごめん…ちょっと、暑さにやられちゃったのかな。ぼうっとしてたみたい」
「なに言っ」
「そうだ、獄寺くん。まだ、時間あるよね?もう少ししたらお昼にするから、ご飯食べていってよ。たいしたもの作れないけど…さっき、奈々さんに電話したらおかず分けてくれるって言ってたし、量に関しては保証できるよ」
といっても、パスタだけどね。
視線を合わせるように顔を上げると、なぜかまもなく獄寺くんのほうに顔を逸らされてしまった。けれど、小さな声で彼が「仕方ねえな」と呟いた音は私の耳にはっきり届いて、変だって、思っているのに嬉しくなる。「よかった」その言葉は、とても自然に口から漏れていた。
「あ、もしよかったら、ツナと山本くんにも伝えてきてもらってもいいかな。その間にまた獄寺くんに拭いてもらうもの、ためておくから」
少しだけ悪戯っぽく笑ったら、なんだか中学生のころのを相手にしているような妙に懐かしい気持ちになって余計に口が緩んでしまった。変なの、可笑しいの。だって、相手は獄寺くんだ。ツナでも山本くんでもない。あの、獄寺くんなんだ。
何か食べ物が喉に詰まったような不機嫌を装い忘れた顔の獄寺くんは、結局無言で私に背を向けるとリビングの扉を出て行った。確信があるわけじゃないけれど、多分ふたりのところに行ってくれたんだろうな。それなら、戻ってくるまでに多少は時間がかかるだろう。
止まってしまった洗いものの中に大きなお鍋とボールを加えて、スピードをあげて取りかかる。一区切り、ついたところでお鍋にたっぷりの水を入れてコンロの火にかけた。
朝一番にスーパーで買ってきた材料だけだから、トマトとツナのパスタが妥当かな。やっぱり夏で暑いから、冷製にして、ナスもあるからそれもいれよう。量増しに丁度いいや。
「あ、」
棚にしまったばかりのツナ缶に手を伸ばして、思わず零れた小さな笑み。
ツナとツナ。ともぐいだ。
くだらないけどちょっとだけ楽しくて、浮かんだ不安が小さな倖せで掻き消えた気がした。