determinarsi







泪を拭って、鼻をすすって。
サンダルを放るように脱いで、すぐに洗面所に行って顔を洗った。洗面所は玄関から真っ直ぐ伸びている廊下の途中にあったから簡単に見つけられた。家の構造自体は、どことなく山形のの実家に似ているらしい。きっと、妙に懐かしさを感じるのはその所為なんだろう。
倖いにして洗面所に置いてあったタオルで濡れた顔を拭くと、さっきと変わらない中学生の私が鏡の向こうからこっちを見つめていた。

「…ぶっさいく」

ものすごく、じゃなかったけれど、泪を零した瞳は赤く染まっていて、鼻の頭もちょっと赤い。
あーもう、こんな顔して最悪だーとか思ったけど、そんな風に考えられる自分にちょっとだけ嬉しくなった。きっと、こんなふうに"普通"に思えるのは、沢田綱吉くんに逢ったから。初めて逢って、嘘を吐くのが哀しいなとも思ったけど、それでも自然と笑えたことでかなり落ち着けたんだと思う。自分の顔を、はっきり見つめられるくらいには。

「これくらいの赤みならすぐに直るよね」

の二十四年間で培ってきた経験からそう判断して、冷たい水でもう一度顔を洗った。



リビングに戻ると、さっきまで寝ていたソファーの側にあるテーブルの上に、何か光るものが置いてあることに気付いた。
きっと、私が起きたときからそこにあったんだろう。でも、眼が覚めてからついさっきまでの私は、これでもかー!というくらいに気が動転していて気付きもしなかった。実際には今だって落ち着いているのかと問われたら「微妙です」としか返答はできないけれど。それでも、多少なりとも周囲を見渡せるようになった今部屋の中を観察してみれば、数十分前とは違った視点で色々なことが見えるような気がした。

たとえば、部屋の食器棚。
今日、引っ越してきたばかりだってことを象徴するように大きなガラス張りの食器棚は空っぽで、生活のにおいが欠片もしない。もちろん、それは部屋のいたるとことに言えることで、大きな家具以外になんにも置いてないただ広いだけの室内は、夏だと言うのにどこか寒々しくて淋しさばかりが浮かんでくる。

「ちょっと、懐かしいかなぁ」

そういえば、大学に入るために東京に出てきた当初もこんな気持ちだったっけ。
あのとき借りた部屋は、1Kの小さな八畳間だったけれど、それでも誰もいない何もない部屋にひとりきりという事実は、それまで家族でいることが当たり前だった私には結構堪えるものがあった。それは淋しい、と一言で表現しきれるような感情じゃなくて、親に干渉されない自由と言う免罪符とか、何もかも自分でこなさなければならないという責任感とか。そんな沢山の矛盾が雑ざりあった奇妙な心持ちだったっけ。もしかしたら人は、ああいう感情を郷愁と呼ぶのかもしれない。
十四歳の姿で感じるにはちょっと可笑しな懐かしさににやけつつ、テーブルの上の鍵を掴む。たぶん、というか間違いなく、この家の鍵なんだろう。親切にも二本用意されていたうちの一本をズボンのポケットにしまい、もう一方は積み重なったダンボール箱の横にあるテレビの上に置いた。小さくてなくしそうなものはひとまずここに置くようにしている。だって、統一させておかないと、何処に置いたか忘れちゃうから。

それから、視界の端に映ったダンボール箱に目を向ければ、箱の上に配達の記録紙が残っていることに気付く。送り主はお父さんの名前。三年前に事故で死んだ、私のお父さと同じ名前だったことには、さすがに驚いた。でも、私の名前がそのままなんだから、お父さんとお母さんも同じなのかもしれない。
こんなことで驚いてちゃダメだ。言い聞かせて、送り先と届け先の住所を確認する。届け先には並盛町の名前。これがこの家の住所で、電話番号。ちゃんと覚えておかなくちゃ。
口でぶつぶつ呟きながら、送り先の住所に目を動かす。予想していたとおり、書かれているのはイタリアの住所。北西部に位置する小さな地域の名前に思わず目を見張った。
知ってる、私ここに行ったことある。
大学の卒業旅行でと行った、トリノにほど近いワインが美味しい場所。ブドウ畑が続く景色が、故郷の風景にちょっとだけ似ていて、好きだなって素直に思ったんだっけ。

「これ、偶然…なの?」

考えてみたら、さっきからこういうことが多い気がする。
最初はの電話番号。使われてない可能性だってあるのに、ちゃんと誰かに繋がった。
それから私とかお父さんの名前。漢字の一字まで一緒なんて、ちょっと出来すぎてる気がする。それに、私のこと違和感なく沢田綱吉くんが受け止めてたことだってそうだ。それって、一年半ぶりに逢う幼馴染と私の顔がおんなじだってこと?

「…………」

いくら考えてみても、結局納得できる答えは出てこなかった。
今だって、一番可能性があるのは「夢オチ」なんじゃないかって思ってるくらいだし。
落ち着いて、冷静になって考えようとすればするほどに、今の私とこの世界にはおかしなところばかりが溢れてる。ううん、違う。おかしいのは、世界じゃなくて私の方なんだ、きっと。
だけど、どれだけ沢山悩んでおかしいって叫んでみたって、さっき自分の目でみて言葉を交わした現実が消えてなくなるわけもなくて。信じ難くても信じたくなくても、たぶん目を逸らしてなかったことにしておくなんて無理なんだ。

少なくとも、沢田綱吉くんが私に良く似た""がここにいることを、心の底から喜んでいたことだけは、私にもわかる真実だから。

それだけは、きっと裏切ったらいけないんじゃないかって思った。
初対面で(漫画の知識としては知ってるけど)全然知らない男の子のことを、こんなに考えるなんてナンセンスだって言われても、彼の知らない私の事情で彼を傷つけてしまう未来を考えると、何故か無性に苦しくなる。

変だ、こんなの。やっぱり、おかしいのは私なんだ。
まるで両親が死んだとき、に「平気」って嘘を吐いたときみたい。

髪の毛を一本だけ引っ張られるような些細な痛みが、想像するだけで心に届く。
そんなに沢田綱吉くんに、感情移入したことなかったのにな。どちらかというと好きなキャラクターはちょっと天然な山本武くんで、憧れたのは美人で一途なビアンキ。こんなにも、記憶になんか残ってなかったはずなのに。
だけど、逆に大して思いいれもなかった沢田綱吉くんに今こんなにも執心していることが不思議で、それを当たり前のように感じていることがもっと可笑しかった。


「…とりあえず、いかなくちゃ、だよね」


誰もいない広いリビングで、笑えたことが奇跡だと思った。
これが沢田綱吉くんのお蔭なら、その恩返しのためだけにこの現実をちょっとだけ受け入れてみてもいいかもしれない。
それが恩返しになるのかなんて解からないけれど、たとえば今ここにいる私が沢田綱吉くんが求めている""にそっくりなら、"この世界の"が沢田綱吉くんの前に戻ってくるまで、私が彼女のふりをするとか。
沢田綱吉くんと過ごした小さい頃の記憶がない私には、"この世界の"になることはできないけど「ふり」をするくらいならできるから。
今、どこにいるのかもどうしてこうなったのかもわからない。もしかしたら、ファンタジー小説で良くあるパラレルワールドの捻じれで、外見がそっくりな"この世界の"と私が入れ替わってるのかもしれないし(ちょっと荒唐無稽すぎて信じられないけど)
もしそうならば、それが元に戻るまで、違和感ないように振舞おう。
元に戻ったときに、"彼女"が、"彼女"の周囲の人たちが困らず笑っていられるように。


原因も、現状も、これまでも、これからも、なにもかもわからないことだらけだけど。
たとえばこれが夢だとしても、捻くり曲がったひとつの現実だったとしても、元に戻るまで精一杯にがんばってみよう。
そんな風に思えるのはきっと、沢田綱吉くんのお蔭だから、ちょっとでも沢田綱吉くんのためになるように。



『おかえり、



なんてことはない。ただ、「おかえり」と言ってくれた"ツナ"のために。
この世界でちょっとだけ、十四歳の""として、がんばってみようと、決めた。



back top next
※決意。現状を無理やりに受け入れてみようと思った理由。