立ち上がってから一番に、すぐ傍らの窓ガラスへ向かった。
ここがどこなのか、外の景色を確かめたいと思ったのがひとつ。それから、なによりも先に、自分の姿を確認したかった。
私は自分が記憶している本人なのか。もしかして、鏡を覗いたら全然違う"誰か"がいたりして。一抹の不安を抱えたまま、カーテンによって閉じられた窓に近づく。
「…っ」
覚悟を決めて厚手のカーテンを一気に開くと、窓の向こう側には物干し竿のある庭が夕焼けの赤に照らされていた。不覚にも、朱色に染まる庭と塀が綺麗だなんて、こんな状況で考えてしまう。けれど、やっぱりこの風景に見覚えはなくて、感嘆するのと同じくらい、泣きたくなった。
それでも私が泣かなかったのは、夕焼け色の風景と同時に、窓ガラスに映った自分の姿が見えてしまったからだったんだろう。
鏡よりは不確定的に、けれどそれでも十分過ぎるほどはっきりと。ガラスは今の私の姿を映していた。見慣れた顔。大して可愛くもなく、でも不細工というほどでもない。それなりにパーツのバランスが整った、平凡な顔立ちだと思う。自慢できるところと言えば、母親に似てくっきりとした二重くらい。
それは、間違いなく私の顔だった。
だけど、同時にそれは、私の顔ではなかった。
「…縮ん、じゃってるよ」
窓に映っていたのは、どうみても中学生くらいにしか見えないTシャツにジーンズ姿の女の子。
化粧慣れした二十四歳の社会人の面影は、欠片もない。私はあくまで私のまま、十歳近く若返っていた。
「ちょ…これ、は…さすがに」
二十歳過ぎたくらいから、「子供に戻りたい!」って思ったこともあったけど、やっぱり実際戻るのは嫌だな、なんて今更ながらに思ってみたり。ありえない。そう思いたいのに、現状だけを把握する理性が「コレハ現実」と訴えてくる。試しに頬を抓ってみても、やっぱり痛くない、なんてことはなかった。
これ以上窓ガラスと向かい合っていても意味はない。混乱する頭に必死でそういい聞かせて、私は鶯色のカーテンを閉めた。
それから周囲を見渡して、あるものを探す。
目的のものは、部屋(おそらくリビング)の扉を出てすぐのところに見つかった。私でも知っているプッシュボタン式の電話。しかもファックス付きで、トレーには印字された紙が数枚残っていた。
届いていたファックスの内容も気になったけれど、とりあえず当初の目的を達成するために受話器を手に取る。押す番号は三つ。一と七を組み合わせた数字を入力すると、僅かな間をおいて、聞き知った機械的な音声が聞こえてきた。
『…発表の七月二十八日、午後四時現在の気象情報をお知らせいたします…』
ガチャン。
容赦なく、突きつけられた現実に、耳を塞ぐ猶予すら与えてもらえなかった。
七月二十八日。
からからに渇いた唇で繰り返せば、それがどんなに不吉な言葉であったのかが痛いくらいによくわかる。
七月二十八日。これから夏本番、暑さが増してゆく季節。ほんの二ヶ月ほど前に、私が通り過ぎたはずの季節。なんてことだ。私の体だけじゃなくて、一定に流れていくはずの時間さえも、私を裏切っていたなんて!
「…そうだ」
ほんの数秒前に置いたばかりの受話器を持ち直し、今度は十一桁の番号を、ひとつずつゆっくり、丁寧に入力してみる。
電話機の液晶画面に表示された十桁が間違いないことを確認して、最後の番号を押す。携帯電話に登録して以来(そういえば服装が変わってるから携帯電話もなくなってる)直接入力することが少なくなった番号だけど、忘れるわけにいかない番号。自分の番号と同じくらい重要で、使用頻度の高い十一桁。
受話器から聞こえる音は、しばらくピッピッと接続音が続いたあとで、プルルルルというコール音に変わった。
心臓が、嬉しさで飛び跳ねるのがわかった。
この電話番号は生きてる ―――――――― に、繋がるかもしれない。
四回目の呼び出し音が終わり、五回目がはじまりかけた瞬間、プツリと高い機械音が途切れる。受話器を握る手に力が入った。気付けば、もう片方の手も握りこぶしを作っていた。
誰かが電話に出た、その事実がなによりも嬉しくて、舞い上がっていたんだと思う。
もしかしたら、若返った自分を見ても、違った今日の日付を知ってもまだ、どこかで理解しきれていなかったのかもしれない。現状を。今、自分が普通でない状況にあることを。
だから、の携帯番号に誰かが出た、というだけで簡単になけ無しの理性は吹っ飛んで。私は、相手の言葉も待たず、受話器越しに大声で叫んでいた。
「ッ!よかった、!私、どーしたらいいかわかんなくて、」
「…誰?」
「え…?」
聞こえてきたのは、声変わりを済まして以来ぐっと低くなった(だけど男の人にしてはやや高めの)の声より、ずっと高い"誰か"の音。ハスキーボイスな女の子か、思春期真っ最中の少年か。否、そのどちらかとしか思えない、特有の高さを持った綺麗な声。
「あ…」
「もしもし。ねえ、黙ってないで答えてくれる?」
「あ、ごめんなさい…あの、この番号って ――――― ですか」
「そうだけど」
「すみません。番号を、間違えてしまったみたいです…本当にごめんなさい」
気が付けば、自分勝手に謝って、相手の返事も待たずに受話器を置いていた。さっきよりも静かに置けたのは、取り乱すだけの気力も見出せなかったせいだったのかもしれない。
わかってた。なんとなく、ここには居ないって。
違う、だけじゃない。私が今まで過ごしてきた二十四年間で出逢った、誰ひとりとしてここにはいないんだ。
の携帯にかけたはずの番号は、どこかの知らない少年に繋がって(つっけんどんな口調はちょっとに似ていた)相手から私に繋がる媒体さえも消えていて、それどころか積み重ねてきたはずの私の時間さえもごっそりどこかに奪われて。
いい加減、突きつけられる信じたくない現実が重たくて、三年ぶりに目頭が熱くなった。
泣いちゃダメ、泣いたらダメだと必死に言い聞かせるけれど、込み上げてくる感情はなかなか止まってくれない。
何か別のことを考えようと思って、そういえばファックスが届いていたんだとトレーに乗った数枚の紙に手を伸ばした。
用紙の一番上には、「親愛なるちゃんへ」と書いてあった。ああ、ここに住んでいる人も「」っていうんだ。なんだか、無性に親近感かんじちゃうな。だけど、それが実は私なんじゃないか、なんてことは、信じたくはなかった。
親愛なるちゃんへ
お帰り、ちゃん。久々の我が家はどうかな?まだダンボール箱ばっかりで、あんまり帰ってきたって感じはしないかもしれないね。でも、大きな家具は一年半前のものと変わってないから、少しは懐かしい感じがするんじゃないかな。
イタリアからの長旅は問題なかった?疲れていたら、荷解きは後回しにしてゆっくり休むんだよ。ちゃんは小さい頃から自分でなんでもやろうとするから、お父さんは心配です。これから一人暮らしをする上で、家事全般は安心できるけれど、無理をしすぎて倒れないようにするんだよ。
それから、隣の沢田さんちの奈々さんには今日ちゃんが帰る旨をちゃんと伝えておきました。ちゃんも久々にツナくんに逢えるのは嬉しいんじゃないかな。ちゃんが七つの時からツナくんとは本当に仲がよかったものね。ツナくんに逢いにいくついでに、ちゃんと奈々さんにご挨拶もするんだよ。お土産のオリーブオイルを忘れずにね。
夏休み明けから、ちゃんが並盛中の二年生になる手続きもちゃんとしてあるから、制服は早めに買って新学期に備えるようにね。中途半端な時期の転入だけど、ちゃんならうまくやっていけるだろうってお父さん達は信じてるよ。
何かあったら、すぐに連絡するようにね。
イタリアのお父さんとお母さんより
「…うそ」
上から下へ。何度、文面を読み返しても書かれていることは一字たりともかわらない。
私と同じ名前の「ちゃん」。
イタリアから一人、帰ってきたばかりの中学二年生。
隣には、沢田ツナくんという幼馴染(かな?)がいて、一年半ぶりの再会で。
違う、そこじゃない。注目すべきは、そこじゃなくて、
「並盛中…沢田、ツナって…これ、まさか…!」
目蓋を閉じて眠る前に、読んでいたコミックのタイトルが頭に浮かぶ。
の家の本棚に並んでいた少年漫画で、「家庭教師」ってタイトルが気になって読み始めた(ちょっと想像とは違ったけど)素直に面白いと思った作品。まだ、十三巻までしか借りてなくて、のところに帰ったら続きを読ませてもらおうと思ってた、あの ―――――
ピンポーン
「っ!?」
家の中に鳴り響いたチャイムの音に、否応なく引き戻される。
だけど、どれだけ思考のなかに逃げたって、どれだけ目の前の事実から眼を背けたって、たぶん、変わったりはしないんだ。同姓同名だとか、似たような名前とか。きっと、そんな風には片付けられない(なにせ並盛中なんてちょっと無い名前だし、お母さんの名前まであってる。その上イタリアだし)
手の中のファックスが、くしゃりと潰れる音がした。
握り潰せてしまえたら、どんなにいいか。けれど、それすら叶わない。
、二十四歳(今はおそらく十四歳)。
どうやら、「家庭教師ヒットマンREBORN!」の世界にいるらしい。