trasognato







「ふぁ…」


欠伸をしたら、涙がでた。
零れるほどではないけれど視界をぼかすには十分で、仕方なく頁をめくるはずだった左手で目をこする。ぞんざいに扱い過ぎた所為で、視界の戻った瞳は少し痛かった。やっぱり、手で直接ってのが拙かったのかな。自分の生来の性格ながら、随分と適当だ。

「んーっ」

右手に持ったままだったコミックは、結局次の頁をめくることなく閉じることにした。
鈍行列車に揺られること、すでに一時間半。外の景色に目を奪われることなく、一心不乱に読み続けていた所為かさすがに目も疲れたし、肩も痛い。ぐい、と思い切り腕を伸ばすと、骨でも折れたんじゃないかと思える位の奇怪な「ゴキゴキ」という音がなった。実際、これで折れてないんだから、本当に骨が折れる時ってどんな音がするんだろう。出来れば体験はしたくないけれど、ちょっとばかり興味は湧いた。

電車が乗り換えの駅に着くまで、あと一時間ちょっと。
さっきから欠伸が何度も出てるし、ちょっとくらいなら寝ても大丈夫かな。

またも浮かんだ欠伸を飲みこんで、借り物のコミックを隣の座席に置いてある鞄にしまった。
カバーがついているから寝ている間に落としても大して汚れたりはしないけれど、折れでもしたら持ち主に怒鳴られ…いや、むしろ冷ややかな視線を送られ、精神的にチクチク苛められることが目に見えるから、こちらは適当には扱えないのだ。A型のお手本みたいなの、そんなところはもうちょっと大人になってもいいんじゃないかと思う。
ああ、まったく。どうして私はあんな男と付き合っているんだろう。
これまでの人生の中で何度も悩んできた、おそらく一生解けないであろう疑問が今日も例に漏れず頭に浮かぶ。あ、これを考えながらだったら、あっという間に寝れそうだ。
羊を数えるより前に、重たくなり始めた目蓋に任せ目を閉じかける。途端、それを邪魔するようにコートのポケットに入れた携帯電話がブルブルと震えだした。

「………」

いったい誰だろう、と思ったのはほんの一瞬。取り出した携帯の液晶画面に映し出された名前を見て、密かに「千里眼?」と思ってしまうのはきっと私だけじゃないはずだ。
これで小言が書いてあったらどうしよう。かなり怖いけれど、返信しなかったらそれはそれで怖すぎるので、渋々届いたメールを選択する。

タイトルはなかった。文章は、たった一行だけ。
だけど、そこに込められたの感情を、読み取れないほど付き合いが短いわけもなく。


『もう、終わったの?』


手早く「終わったよ。今、帰りの電車の中」とだけ打ち込んだメールを返信すると、ほとんど間を置かずに「どうだった?」と書かれたメールが届く。

そういえば、短いにもほどがあるんじゃないの、と一度突っ込んだことがあったっけ。次の日、携帯で送信できるギリギリまで書き込まれた(ただし、文章の九割は不必要な修飾語で、要件は「今から家に行く」のみだった)メールを送られて以来、二度と口を出さないと決めたけど。

二通目のメールへの返事は短くまとめるには難しくて、それどころか上手い言葉も浮かんでこなくて。ひとつひとつ、自分の中で噛み砕いて考えて、書いては消してを繰り返して少し長めの文章を打つ。随分と長いこと、私以外の乗客がいない車両に携帯のボタンを押すカチカチという音が響いていた。


相変わらずだったよ。なにも、変わってない。
のお母さんも元気そうだった。今も毎日、家と墓石を掃除してくれているみたい。
正月には戻ってこいって。それから、よくわからないけどに伝言頼まれた。
「もう、三年目」って言えばわかるらしいけど、わかる?
それから ――――――――


送信ボタンを押すと、数秒後には画面に表示される「送信しました」の文字。

「もう三年」

たった、四文字の言葉。だけど、それを自分が打ち込めたことが、正直信じられなかった。
きっと今頃、東京にいるも驚いているんだろう。あんまり変わらない表情筋を目一杯に駆使して。

「もう三年」

三年前は、そんなふうに考えることがどうしてもできなかった。
二十一歳の私には、彼らを喪った哀しみが大きすぎて、空いてしまった隙間が広すぎて、するべきことが見つからなくて。

「もう三年」

のお母さんが言ったあの言葉は、きっとだけじゃない。私にも、向けられていたんだと今更ながらに思う。
両親を交通事故で同時に喪ってから、もう三年。やっとひとりで墓参りに行けた。やっと、過ぎた時間を数えることができるようになった。

さっきよりも長い時間を空けて、からメールが届く。
相変わらずタイトルのない短いメールには「気を付けて、早く帰ってきなよ」と書いてあった。素っ気無い、けれど優しい言葉に自然と口元が緩んでしまう。ああ、そうだ。私はきっと、のこんなところが好きで、付き合っているんだ。

もう何度目かわからない再確認を胸に「わかった」と短く打ち込んだメールを送り携帯を閉じる。列車の速度をあげることはできないけれど、駅から家まではタクシーを使ってもいいかな。ほんの少しでも、早くに逢えるように。


「ふぁ…」


閉じた携帯をポケットにしまうと、忘れかけていた眠気がまた襲ってくる。
目的の駅まであと一時間ないけれど、場所は終点。寝過ごしても、見回りにきた車掌さんに起こしてもらえるよね。
あまり座り心地が良いとは言えない座席に深く、座り直して目蓋を閉じる。
ガタゴト、耳に触れる列車の音が心地良い。子守唄にはぴったりで、視界が暗くなった途端、さっきまでは寄せては引いて、を繰り返していた眠気が一気に駆け寄ってきた。

大丈夫。寝過ごしても、車掌さんが起こしてくれるはずだから。

深みに落ちる最後の理性で思い浮かべたのは、親愛なる幼馴染の名でも、両親の姿でもなく、列車に乗るときにちらとみた、名も知らぬ車掌さんの後姿だった。



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※白昼夢