Prologo







少女の記憶では、その日は目が覚めるくらいに澄んだ青の色が空一面に広がっていた。
花の香りを乗せた風は春めいて、細く開けた窓からは心地よいぬくもりが入りこみ、車内の空気を彩っている。
気を緩めればほんの数分で夢に落ちてしまいそうな、穏やかな気配に少女は大きな欠伸をひとつ零した。


。ちゃんとお別れの挨拶はしてきた?」


目尻に浮かんだ泪を少女が拭っていると、助手席に座った少女の母親の声が尋ねた。
少女は躊躇うことなく首を振り、視線だけを窓の外へと動かした。


「なんで言ってこなかったの。そのために遊びに行ったんじゃなかったの?」
「遊びに行ったのは、春休みの宿題をちゃんとやってるか確かめるためだよ」
「…あんた、どこの母親やってんの」
「だって、誰かがそばにいないと、無理だってすぐに決め付けちゃうんだもん」


少女の眼の先には、ほんの数十分前まで少女が訪ねていた部屋の窓があった。
少女はその部屋の主である、ひとりの少年のことを思い浮かべる。
学年が変わる春休みなのに、先生に名指しでダメだしをされ宿題を課せられてしまった幼馴染。自分で自分をダメだと決め付けて、無理だと口にし慣れてしまっている男の子。
けれど、少女は知っている。
勉強ができなくても、運動ができなくても、少年が大切なものを持ち続けていることを。
大切な幼馴染のそんなところが誇らしくて、少女はふわりと口元を綻ばせた。


「なんだ、ちゃん。お別れ言ってこなかったんだ」
「そーなのよ。この子ってば、ほんと奥手というか意地っ張りというか…今生の別れになっても知らないわよ」
「大丈夫だよ」


運転席のドアを開け、烏色の髪をした少女の父親が乗り込んできた。
まもなく、車は空港へ向けて走り出す。
これが最後と言わんばかりのため息を吐いた母親に、少女はもう一度「大丈夫」と告げた。


「だって、また必ず、逢えるから」


そう。絶対にまた、逢えるから。
「さよなら」を伝えなかった理由はもちろんそれだけではない。けれど、少女は少年との別れが哀しむべきものではないことを知っていた。
車の外では、別れと出逢いの季節を彩る薄紅色の花びらがどこからともなく現われ、風と戯れるように踊っていた。
大丈夫だよ。これが、終わりじゃないから。哀しむことなんて、ひとつだってないんだよ。
だから、少女は少年の部屋を出た時に口にした言葉を、もう一度窓に向かって呟いた。


「またね、ツナ」



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