弱さと限界



「僕はスノウ、スノウ・フィンガーフート」

そう言ってスノウが差し出した手のひらを、今度は悩むことなくは握った。それから微笑むように目を少しだけ細めて、小さいながらもはっきりとした声音で応える。

「私はといいます。
 先ほど…から、スノウさんが私を見つけてくださったのだと伺いました。こんなことしか言えなく心苦しいのですが、本当にありがとうございます」

深く頭を下げたの長い黒髪が、肩から落ちて彼女の表情を半分隠した。ほんの数秒だったけれど、その時間がには何故か勿体ないようなつまらないような気がして、スノウの横で僅かに眉を顰める。なんでだろう。自分の感情に理由をつけられないまま考えあぐねていると、隣に座っているスノウが軽く笑った。

「そんなに畏まらないでいいよ。騎士として、当然のことをしただけだからね」
「でも、」
「そんなことより、目が覚めて本当に良かった。も聞いたと思うけど、体は大丈夫なのかい?」

どこか不安げに顔を歪めていただったけれど、スノウがそう尋ねると慌てて背筋を伸ばすと「大丈夫ですっ」と両手を軽く広げてみせる。怪我などないし、身体もきちんと動くのだと伝えたかったのだろう。どこかたどたどしい、という言葉が当てはまりそうな仕草を見せる彼女を目にして、もスノウも込み上げる感情につられて口元が緩むのを感じた。

彼女ひとりが助かって、他の何もかもを失ってしまって。哀しくないわけなどないのに。それでも必死にこちらの言葉に応えようとする姿は、痛々しいと同情を誘うよりも先に、ふたりの少年に柔らかな感情を育ませていた。眠っている顔をずっと見ていたせいだろうか。呻く声を長いこと聞いていたせいだろうか。黒を基調とする不思議な色の瞳が開かれて、少女らしい自分らよりも高い声が聞けたとき、生まれた安堵感は仲間に対するそれのように大きかった。
本当ならば、こうして微笑みを浮かべてくれることを喜ぶべきいなんだろう。けれど、彼女の状況を鑑みる限り「笑う」ことがとても正しい反応であるとは、にはどうしても思えなかった。泣いてもいいのに。叫んでもいいのに。恨み言を言っても、関係のない自分たちに当たってくれたって、きっと責める人はいないのに。
心の底から、が笑っていられるというのなら、はそれでもいいと思った。けれど、は見てしまった。目が覚めてすぐ、が自分の顔を見た瞬間、驚いたように見開かれた眼。それから、震えた手のひらで必死に布団を握っていた姿も。強がりの欠片に気付いてしまったから、は思う。そんなもの棄ててしまって、泣いてくれたらいいのにと。難しいことなんだとは気付いていた。突然現われた自分達の前で、そんな醜態を晒せなんて、精一杯強がる彼女のすべてを否定するようなものだ。
だから、はっきりとはいえない。けれど、それでも無理をしないでほしい。矛盾するふたつの思いを抱えたまま、はスノウに視線を向けた。
どんな風に自身が思っていても、とスノウは騎士見習いだ。最低限、やらねばならないことがある。
それを知らせようと向けた視線の先で、彼にしては珍しくなんとも穏やかな瞳でスノウはのことを見ていた。こちらの視線に気付き眼が合うと、一瞬悩むように目線を外し、それから小さく頷いた。

、だったね」
「はい」
「…眼が覚めたばかりの君に、こんなことを聞きたくはないんだけれど」
「はい」
「それでも、僕とは騎士だ。…いや、違うね。騎士、見習いなんだ」

歯切れの悪い言葉に、は毎回しっかりと返事を返す。哀しさはない。戸惑いも、その表情からは読み取ることはできなかった。
そしては、戸惑うスノウの代弁をするかのように揺らぐことのない言葉で言った。

「わかっています。にふたりが『ガイエン騎士団』の訓練生だって、教えてもらいましたから。
 だから、私のことよりもふたりの義務を、優先してくれて構いません。ふたりが安心できるまで、どうぞ調べてください」

ゆらゆらと揺らめく部屋の灯が、の瞳に映りこんで紫色に輝く。甲板で初めて彼女のそれを見たときと同じ黒とは違う黒から、やっぱりは目が離せなかった。
紫の輝きは角度を少し変えると、彼女の見せ掛けの強さを表すかのようにくすんだ赤みを帯びた。その眼でまっすぐスノウを見つめるは、の視線に気付くと躊躇うことなくきっぱりと微笑んだ。

…すまない」
「…優しいんですね。私のことを、気にしてくれて嬉しいです。
 でも、スノウさんが謝られることなんてありません。だって、スノウさんは私の命の恩人なんです。助けて頂いて、何も説明しないなんて不届きなこと、私はしたくないだけです」

ひとつ、小さく息を吐いて。はほんの少しだけ、瞼を伏せて目線を落とした。

「船が、難波したのは…港を出てから2日過ぎた頃だったと思います」
「落雷があってから、もう3日だから…出航したのは丁度5日前だね」
「…私、随分気を失ってたんですね。あっ、ごめんなさい。そんな話じゃなかったですよね。
 えと、船はガイエン公国の北の港から出航しました。小型の客船で、目的地はオベル王国でした。
 …落雷にあった正確な場所はわからないのですが、直前に話をした船長さん…のお話では、船は予定よりも早いスピードで進んでいたらしいです」
は船の船長と知り合いだったの?」
「いえ…そういうわけじゃ。ただ、私はひとりで船に乗っていたから、きっと気にかけてくれていたんだと思います。他の船員さんもよく話しかけてくれましたから」

そう言ったの顔がさきよりも下を向いていて、は「しまった」と思わず口を引き結んだ。彼女が、が気にかけていた生存者。その中には、船の船長や乗組員も含まれていたのだ。

「それから…何があったんだい?」
「…客船の前方に、突然別の船が現われたんです。
 甲板の上は大騒ぎで、船長さんの舵取りの声も聞こえました。雷雲が現われたのも、丁度そのときです。まるで、船と一緒にやってくるみたいに、黒くて小さな雲が客船に迫ってきたんです。
 落雷の瞬間は本当に、一瞬でした…私は、正直、よく…覚えてなくて。ただ、赤と黒の閃光が、船の中心を通り抜けた、気がしました。
 床も、人も、船縁も、帆も、気がついたときには何も…なにも、なかったんです。眼を開けたら、雲は消えていて、ふ、船もなくなっていて、私は板に掴まっていて…周りには、私以外にだれも」


 ガシャン!


「っ!?」
「す、すまないっ」

大きな音をたてて水浸しになった床に、謝罪の言葉を発したのはスノウだった。
スノウにつられは慌てて立ち上がると、起き上がろうとするを制して大きな破片を手早く拾う。一緒にしゃがみこんだスノウの手は、小刻みにではあったが震えていた。ほんの数秒前までの、彼女と同じように。

「すまない、。話の腰を折ってしまって」
「いえ、そんな…!それより、スノウさんもも、怪我は」
「大丈夫だよ。床は、少しへこんでしまったけどね」
「丁度いいし、これ、捨ててきながらお茶持ってくるね。俺、お腹も減ってきたし。も、喉渇いたでしょ?」
「あ…は、い」

嫌いな食べ物とかある?と平凡な調子で問うたに、は眼を丸くしながらぎこちなく首を横に振る。
適当な布に乗せた破片を手に立ち上がり、スノウと共には部屋の出入り口に足を向けた。部屋をでる前に振り返ったその先で、きょとんとしたどこか幼いその顔が、なぜかにはの素顔のように思えて、困惑させておいて不謹慎だと思いつつも嬉しいと感じてしまった。