咽が枯れそうな絶望の味



「………………。」

ふあ、と欠伸をしてほんの数秒だけ瞼を閉じて、それを開いた瞬間は目の前の光景に声を出すことすら出来なかった。
こういう時、世間一般ではどんな反応をすればいいんだろう。とりあえず反射的に足を止めてはみた。けれど、それも右足を一歩踏み出して左足の踵も宙に浮きかける、というなんとも不恰好な姿でとなってしまったが。
ああ、自分はいま混乱しているんだとにかく落ち着いて目の前の幻をかき消してもう一度あの子のコートを掴みなおさなくちゃ。
固まった格好のまま、は大きく空気を吸い込んでゆっくりと吐き出した。雨の後なのか、若干湿った森林独特の香りが体を通り抜けるのがわかった。うん、きもちい。これで大分気持ちも落ち着いてきたんじゃなかろうか。徐々に硬直から解放されだした両足を地面に下ろし、はその場に真っ直ぐと立ってしっかりと前をみた。


「………も、り…?」


森。
頭の中で変換を試みて、出てきた漢字には目を瞬かせる。それから、つい先ほど深呼吸をした自分が雨の匂いと湿った木々の香りを匂いだことを今更ながらに思い出した。
様々な臭いの混じりあった人ごみとも、足元に引かれたビニールの臭いとも違う心を濯ぐ芳香。都会では久しく味わうことの出来なかった香り。
は、いつの間にか自分がごくりと酸素の塊を飲み込んでいることの気付いた。身体の中心で、何か冷たいものが生まれて少しずつ溜まってゆく。まるで温かい血液を追いやって、冷却水が指の先端までかよっているようにかじかむ。半ば無意識のうちにはショールの両端をきつく握っていた。

「なに、これ」

小刻みに震える足でそれでも柔らかな大地を踏みしめながら、眼だけで周囲を見渡す。
森。どうやら、初めに嗅覚が感じとったものは間違いではなかったようだ。暗く澱んだ暗緑色の光景。視覚でまわりを認識できるのだから光がないわけではないのだろう。けれどいったいどこから光が射し込んでいるのかさえにはわからないくらいに森の中は暗かった。
高く広く生い茂った木々は狭い空さえ消し去って、見上げてみても目に映るのは闇色の天井だけ。色彩の欠けた世界では、の羽織るショールだけが明確な色を持っているかのようだった。
これは、いったいなんの間違いだろう。
じっとりと湿った地面に沈み込んだ重い足を片方上げて、半歩後ろに下ろしては考える。けれど、どれだけ考えてみても、幾度記憶をひっくり返してみても、大きなホールで友人と長いつまらない話を聞いて入学式を終えたばかりの自分しか思い浮かばない。そうだ。この記憶に間違いなんてない。自分は確かにこんな場所にはいなかったはずだった。
なのにどうして。だんだんと震えが大きくなってゆく足は、を容赦なく追い詰めていく。いつのまにかその場にただ立っていることさえ難しくなり、は1歩、また1歩と足を前へ横へと動かしていた。
バランスを取るためだけに踏み出された足は、徐々にスピードを上げ瞬く間に駆け足へと変わっていった。革靴に絡みつく泥に足を取られながらも、は必死に走った。行く当ても来た道もわからないまま、動き続ける足は進んでいるはずなのにとてもそうとは思えなかった。前なのか後ろなのか、幻なのか現実なのか、真実なのか嘘なのか。いっそのこと今こうして感じる足の、肌の、腕の感覚全てが偽りであればいいのに、と途方のない願いまでもが脳裏を掠めた時、つま先を泥濘に取られ前のめりに倒れてしまった。

「はあ、はあ、はっ」

嗄れた肺と喉が必死に酸素を求めているのに、吸い込まれるそれがやはりさっきまでの湿ったものと変わらないことに吐き気がした。
ふと落ちた視線で、真っ白だったはずのワイシャツの袖と手のひらにべっとりと付いた泥を見ては思わず息を呑む。

なんなの、これ。いったいなんだっていうの?

一度膝をついてしまった今となっては再び立ち上がることすらには困難だった。長い時間走っていたわけではないはずなのに、体は動くことをとにかく拒んでいたのだ。
泥で汚れた手のひらを気にかけもせず、は顔を覆い視界を塞ぐ。
こんなの、違う。何かの間違いだ。現実なんかじゃない。
山ほどの否定と拒絶を繰り返しているはずなのに、どうしてだろう。どこかで自分が目の前のそれらを決して「夢」だと思っていないことに気付いては背筋が凍った気がした。
どうして今、自分は走り出してしまったんだろう。何かに追われたわけでもなければ、あの場に留まっていられない理由があったわけでもないのに。


 走り出したのは認めたくなかったからでしょう。
 頭のどこかで、ではない誰かが甘く優しく囁いた。

 これが貴女の現実だと気付いていたから逃げたのでしょう。
 今度はさっきとは違う穏やかな声が耳の奥の奥で響いた。


「ちが…っ、そ、じゃ…ない」

聞こえるはずのない声を追い払うように頭を振って、否定の言葉ばかりを繰り返して。
けれどだんだんと近づいてくる"それ"から逃れることなど出来ず、チリチリと焼け焦げるような音と熱が手のひらに首元に生まれはじめる。
逃げなければ。否定しなければ。決して認めたりしては、いけない。
掠れる喉で荒い呼吸を繰り返し、は頑なに眼を閉じて耳を塞いだ。
そしてそれに呼応するように瞼の裏側に広がった白い焼き付けるようなひかりに、の意識は霧散していく。

どさりと鈍い音をたて倒れこんだ泥濘の温度すら感じぬまま、ふかくなまぬるいやみの中に、落ちた。

 

  
  さん、混乱中です。