愛しいおわり
目を開けると、やみがみえた。
瞼を閉じると、ひかりがみえた。
歪で軋んだ世界の端で、誰かに名前を呼ばれた気がして、意識が途切れた。
「…、口」
「ふぁ?」
隣に座った友人の小声で、は目を覚ました。
まだ半分ほどしか開かない眼で友人を見やれば、顎でくいと正面の壇上を示される。豪華に飾られた色とりどりの花、ずらりと並べられた椅子に腰掛ける年齢層の高い人物たち。そして、拡声器を通して広い空間に響き渡る低いゆったりとした声を聞いて、は漸く今自分が何処でなにをしていたのかを思い出した。
「…私、寝てた?」
「思いっきりね。でかい口開けて、終いには涎でも垂らすんじゃないかと思ったわ」
「…起こしてくれてありがと」
意識のない間にさらしかけた醜態を止めてくれた感謝を告げれば、長い髪を耳にかけ直した彼女の「どういたしまして」と言う素っ気ない返答が放られる。
相変わらず、素直な態度には弱いんだから、とは口元を綻ばせ小さく笑った。
視線を正面に戻した友人を横目に、は周囲に目立たないよう小さく腕を伸ばし肩を回す。それから右腕の時計に目を向け、まだ式が半分しか終わっていないことを知るとうんざりと息を吐いた。
4月第1週の金曜日、今日はがこれから4年間通う大学の入学式だった。
朝一番から都内の大きなホールに集められ、固いパイプ椅子に縛り付けられてから早2時間。すでにの疲労は限界点に近づいていた。元々の忍耐力が弱いわけでも体力がないわけでもないと自身は認識しているのだが、今日に関しては早々にめげても仕方がないのではないかと思う。なにせ、昨夜は久々に施設に顔を出したために今の家に着いた時には殆ど夜が明けかけていたのだ。
(さすがに徹夜で長い祝辞は辛いよ)
油断すれば口から大きく飛び出してしまいそうな欠伸をかみ殺し、は深く椅子に座り直した。そうして背筋でも伸ばしていなければ、ものの数秒で先ほどの醜態に早戻りしてしまう気がしたのである。
「ん〜終わったー!」
「ってば…気を抜くならせめてホールでてからにしなさいよ」
「そんなこと言っても、本当に大変だったんだからね?ただでさえ眠いのに話は長いし空調快適だし」
「だったら寝ればよかったじゃないの」
「でも、家に帰って養父さんと養母さんに『寝てましたー』なんて言えないよ。それに、今日はこれで終わりだから帰ればゆっくり寝れるしね」
退場の順番を待ちながら、今度こそとは大きく伸びをした。両腕を思い切り天井に向ければ、つられるように沈みかけていたやる気まで浮上するような気がして、更に強く腕を引っ張ってみる。見かねた友人が「いい加減にしな」と止める頃には、調子に乗りすぎて少し肩が痛くなってしまっていた。
「ま、明日も朝からガイダンスだし、今日は確かにゆっくりした方がいいかもね。今日のあんた、ちょっと変だし」
そう言って、彼女は折り畳んでいたコートを広げ羽織始める。
さすが、つきあいが長いだけはあるなあ。は彼女の折れたコートの襟を直しながら素直に感心してしまった。
何が変なのかと問われてもきっと彼女は「さあ」としか答えないだろうし、そもそも明確な理由なんてわかっていないのだろう。なにせ、当事者であはるはずのにさえ理由も原因もわかっていないのだから。
この奇妙な感覚は、昨晩施設を出たときからずっと続いていた。
はっきりしない靄のような枷のような何かが頭のどこかに絡みついている違和感。寝不足、の一言では到底片づけられない不調が躯全体に蔓延っているような奇妙な感覚。
そういえば、式の最中に居眠りしていたときにも妙な光景を夢見た気がする。全てを呑み込んでゆくようなやみと何もかもを焼き尽くすひかりと、それから、
「…なんだったっけ?」
「あたしとしてはあんたのその発言がなんなのか聞きたいわよ」
「あ、ひど!調子が悪い友人には優しくしてよ!」
ざわめきで満ちた空間で小さな抗議の声を吐いて、は白のショールを羽織った。
学生の声に追いやられつつあるスピーカーからの音声が、雑音を孕みながら2人の座席の退席を促す。漸く動き始めた周囲の動きに合わせ、は友人の背を見失わないように足を動かした。時折ちらりとこちらを振り向く友人の気遣いがくすぐったくて、冗談交じりにコートの裾を掴んでみる。くい、と少しだけ裾を引っ張ってみると、今度は不機嫌そうに眉を寄せた友人の顔がこちらを向いた。
「ちょっと…離しなさいよ。重いでしょ」
「えーいいでしょ、迷子防止」
「迷子になっても勝手に帰れるでしょ」
ぺしりと音でも鳴りそうに素っ気無く振り払われた腕。は口元を緩めたままもう一度「えー」と不満の声を漏らした。
まったく、こんなところはいつまでたっても変わらないんだから。
どう考えても楽しんでいるとしか思えないの声を聞きながら、彼女はそんなことを考えていた。母国の基準で、あと数年で大人と認められる年齢になりながらも、は子どもみたいだ。おそらくこのホールにいる誰よりも早く「子ども」であることを諦めたはずなのに、時折こっちが忘れたような無邪気な顔で素直に笑うのだ。のその笑顔が、彼女は堪らなく苦手で、どうしようもなく好きだった。
(まったく、人の気も知らないで)
仕方ないから帰りにの好きなチーズケーキでも奢ってやるか。
まるで保護者や姉のような穏やかな感情を抱きつつ、彼女はホールの小さな出入り口を流されるように通り抜けた。
「っ、いくら人が多いからって本気で迷子にならないで、…よ?」
振り向いた彼女は、自分でも意識しないうちに周囲の流れを無視してその場に足を止めていた。
前にも後ろにも延々と連なる黒い頭と服の群れ。まるで通夜にでも来ているような気分になる単調な色彩の中で映えるはずの白が、そこになかったのだ。
「…?」
喉の奥底から漏れるような掠れた声が、申し訳なさそうに名前を呼ぶ。けれど、それに反応するものはなにひとつなく。しまいには人の向きに足を止めることさえも妨げられ、彼女は少しずつその場から遠ざけられていった。
「…っ?」
周囲の訝しげな視線を無視して必死に歩みを戻しても、彼女の声に応える相手は誰もいない。ついさっきまで背を掴んでいたはずの手も、見当たらない。
「…どこかで、前に出たのかしら」
僅かに背筋を通り抜ける冷たさに気付かないふりをして、彼女は自身を納得させるように呟いた。
黒の中でよく映えるはずの見落とすわけのない色を見失った事実に首を振り、流れに合わせて再び足を動かし始め彼女は建物の出口へと急いだ。
それから、彼女がと再会することは永遠になかった。