#3-2




亮さんの後を追って階段を下りてすぐ、裏口に通じている厨房に向かった。昨日、私が克朗さんにココアを飲ませてもらった場所だ。
そこに予想通りの背の高い姿を見つけて、「おはようございます」と声をかける。克朗さんはいつもどおりの穏やかな微笑で「おはよう」と返してくれた。

「昨日はありがとうございました、克朗さん」
「いや、構わないよ。それより本当に疲れていたみたいだね。気が付いたら眠っていたから、少し驚いたよ」
「…ほんっとにすみません」

うわーやっぱり、あそこでいきなり眠っちゃったんだ、私…なんとまあ、こっ恥ずかしい!てか、人様の家に突然あがっていきなり寝るって非常識極まりないでしょ。いや、やったのは私だけどさ。
心の底から恥ずかしくて自然と視線が下を向いてしまう。そんな私の頭に、ずしんと重たい何かが乗っかった。なんだ、これ?首にかかった重力に逆らって顔を上げたら、こっちを向いた克朗さんがニコニコ笑って私の頭の上を指差していた。

「その子も心配していたみたいだな」
「あ…モモンガくん」

手のひらで触るだけでわかる、あったかい生き物の体温。昨日、私のピンチを助けてくれたモモンガくんが、静かな寝息をたててそこにいた。

「克朗さんが、みててくれたんですか…?」
「いや、三上が世話をしていたんだよ」
「………えっ!?」
「世話、というよりはその子が三上の頭に張り付いていた、という方が正しいかな。三上が二階に上がろうとすると、顔に覆いかぶさってね。なかなか面白かったな」
「…そ、そんなことしてたんですか、モモンガくん」

すごい…すごいよ、モモンガくん!あの亮さん相手にそんなおっそろしい芸当を?!昨日のモモンガくんアタックといい、なんてチャレンジャーかつ勇気溢れるモモンガなんだ…私も見習わなくっちゃ!

「って、そんなことより!克朗さん、不躾で非常に申し訳ないのですが、私そろそろお暇させて頂こうかと」
「え…いや、それは構わないんだが…三上から、聞いていないのか?」
「聞きました。だからこそここから退却させていただきたいんでありますっ」

ビシッと裏口を指さすと、何を得心したのか克朗さんは「ああ」と短い声を漏らして小さく頷く。呆れられて、しまうかもしれないけれど。そうされたって構わないから今すぐここから逃げ出したいのだ。
今も頭の端っこに引っ掛かっているのは、窓から見えた一艘のウンディーネ。その胴に描かれた藍色の花。大嫌いなあの花が象徴するのは今も昔も、たったひとつ ――――――

「お願いします、克朗さんっ。見逃して下さ」
「へー。噂に名高い『セフィラクリフォ』は、わざわざこんな朝早くから尋ねてきてあげた相手に挨拶もせずに逃げるんだ」
「!!」

ぎくり。
感情にあわせて心臓が声をあげることができるのならば、間違いなく今の私のそれはそんな風に鳴いたに違いない。
聞きなれた、なんて思いたくもないのに何故か聞きなれてしまっている声。傲慢とも受け取れる自信と、それに見合うだけの才能と努力を内包した澄んだ音。
逢いたくない。振り返りたくない。そもそも、聞きたくもなかった。
むしろ、今だって許されるのならば聞かなかったことにして目の前(およそ一メートル先!)にある裏口のドアノブを回して押し開けて、ダッシュで家に帰ってしまいたい。それから圭介さんのところに言って、確認したい。安心したい。逃げてしまいたい。

もちろん、声の主がそんな願望を、許してくれるなんてこれっぽっちも思ってなんかいないけど。

「なぁんのアポイントもなしに朝っぱらから現れるような非常識さんに比べたら、私なんてまだまだマシかと思いますけど」
「探偵擬きに逢いにくるのに事前承諾な必要なんて、随分と出世したもんだね」
「探偵擬きじゃない!"失せもの屋"だって何度も言ってるでしょ?!」
「僕からしたらどっちも大して変わらないよ。どっちも、人の弱みにつけこむ仕事だ」
「ッ!」

反射的に振り向いてから、しまったと後悔した。
ああ、もう。なんでこいつの思い通りに行動なんかしちゃうんだろう。
頭の隅っこの冷静な部分はそう言ってるのに、体と感情はそう簡単に納得なんてしてくれない。だって、そうだよね。お父さんの仕事をバカにされて、笑って無視するなんて、そんなのできるわけない。

だから、勝ち誇ったような憎らしい(だけどそれがすっごい似合ってるから腹立たしい)翼の顔と向き合っても、不思議と敗北感はなかった。苛立たしいけど、憎らしいけど。
哀しいけど、それでも。

嫌いになんて、なりきれないんだ。


「久しぶりだね、
「久しぶりってほど久しぶりでもないでしょ、このストーカー」
「失敬だな。後をつけてるのは部下であって、僕じゃないよ」
「いやそれ全然変わんないから」

当人曰く久しぶりに逢う(正確にはたかだか十一日ぶりだ)従兄弟殿は、女の子とも見紛うくらいに愛らしい顔を綻ばせて哂った。
その顔がまるで「わかってるくせに」とでも言われているような気がして、なんだか無性に癇に障ったから、無言で足を思いっきり振り下ろした。なのにあっさりかわされて、余計に腹がたったのは私だけの内緒の話だ。