#3-1




こうやって、眠ることができるようになったのは、いつからだったっけ。

「ん…うぅぅー」

寝返りをうった布団から、気持ちのいいお日様の香りがした。
私の部屋の布団は、十二歳の時に木田のおじさんが買ってくれたのをそのまま使い続けている。一緒に暮らす記念だよ、って優しく笑ってくれたあの人はもういないけれど、あの人が遺してくれたものは布団だけじゃなく沢山ある。だから、寂しくはない。
頭を埋める枕は、一年と少し前に私が圭介さんの家を出ることを決めたとき、与志さんがくれた。もらう理由がないって断ったのに、与志さんは子どもは甘えるものだと言って、やっぱり優しく笑って押し付けてきた。年齢なんてひとつしか違わないのに、与志さんに言われると何故か納得してしまうのだ。
値段とかメーカーとかは知らないけど、なんだか無性に頭にフィットするこの柔らかさが、すごく気に入ってる。

「……ん?」

あれ…?私の枕って、こんな感触だったっけ?
そういえば、私昨日も一昨日も布団干してないはずなのに、なんでこんなにふかふかなんだろう?
正直、まだ起きたくない信号を発信し続けてる頭に鞭打って、重たい目蓋を半分開く。その隙間から飛び込んできた景色に、うとうとしていた思考回路が一気に目覚めた。

「な、な、な!」

なんじゃこりゃー!
って、叫びたかった心境を、朝だからってことで必死に抑える。
だけど、叫びたくなる私の気持ちだって、ちょっとは理解してほしいもんだ。
起き上がったベッドはシンプルな木製で、部屋が狭いからベッドの置けない我が家のものとはまったく違うし、部屋自体八畳はありそうな広さだ。その段階でまず別の場所!しかも、一応綺麗には片付けてるけどそれなりに物の多い私の部屋と違って、この部屋にはものがない。綺麗とか汚いとか、そういう感覚で話ができないくらい、物の見事になんにもない!あるのはベッドと、パソコンが置いてある机と、造り付けのクローゼットのみ。…生活感なさすぎ、ってこういうのを言うんだろうか。

見知らぬベッドの脇に置いてある置時計の指してる時刻は、朝の六時ちょっと過ぎ。寝過ごしたわけじゃないことにとりあえず安心した。
それから、昨日の晩のことをちょっと思い出してみようかと、寝起きの頭をフル回転させて記憶を遡ってみる。
昨日といえば、桜井のお嬢様の依頼を受けてモモンガくんを探しにバッカニアの倉庫に忍びこんだんだっけ。モモンガくん自体はあっさり見つかって、帰ろうかと思ったその矢先。あの変な男が現れたんだ。
名前も名乗らなかった変質者は、だけど私のことを知っていて、前置きもなしに"オリーブの種"をよこせと言ってきた。苗字を呼ばれて腹が立ったからとりあえず林檎と牛乳を投げたけど簡単にかわされて。その後、モモンガくんのお蔭でできた隙を狙って、ようちゃんの言ってた安全地帯まで逃げてきたんだ。

「…そうだ。ここ、『久良岐や』なんだっけ」

布団から体を乗り出して、すぐ脇の窓の外を見下ろす。
当然のことながら、そこにはうちのアパートの前にある細い運河ではなくて、幅の広い水の道が揺れる水面を抱いて流れていた。

「……っ!」

その水面に現れた影を見つけて、思わず窓に詰め寄ってしまう。
うそ、うそうそうそ!冗談だよね、あれ。てか、まさかこんな朝っぱらからこんなところに来るなんて非常識、さすがのあいつでもしないよね!
頭の中で必死に否定してみるけど、一度目にしてしまった以上なんとはなしに不安になってしまうのも事実。見知らぬベッド(克朗さんのものであることを祈る。てか、亮さんのだったらどうしよう!)から飛び降りて、ぱぱっとベッドを整えて、扉に向かった。

「なんだ、起きたのか」
「わっ!あああああ亮さん!」
「てめぇ、そんなに驚くなよ。人の部屋使ってのはお前の方だろが」

そんなに驚くなよって言われても、実際問題扉を開けてすぐ目の前に人がいたら驚いたっておかしくはないと思うんだけど…いや、それよりも今、ちょっと聞き捨てならないというか、聞きたくない台詞が雑じってたような気がしたのは私だけ?人の部屋?人の部屋って、それ…

「も、もしかして…ここ、亮さんの」
「んだよ、その顔。俺の部屋じゃ不服だってのか?」
「いえいえいえいえ!滅相もないですっ」

ただちょっと、亮さんのベッドを使ったとなると、その代償になにを求められるのか恐いなーとか思ったりはしますけど!
個人的には克朗さんのベッドのが安心だったなーとか思っちゃったりもしますけど!
心の中でだけ、そんな言い訳を繰り返しつつ頭を振っていたら、何故か亮さんに思いっきりため息を吐かれた。…私、そんなに呆れられるようなことした?

「あ、あの…」
「変質者に追われて、さすがにお前でも疲れたんだろ。具合、どーだ?」
「あ…今は、元気です。すごい迷惑かけちゃいましたけど、ぐっすり眠って疲れも取れたみたいで」
「そうか」

そう言って背を向けた亮さん。…この人、いったい誰ですか?なんて思ってしまうくらい、普段の亮さんとは違ってて、もしかして私ってばまだ夢でも見てるんじゃないかと頬をつねって確認してみる。痛い。やっぱり、夢ではないらしい。
なんてことをしているうちに、亮さんの背中はくだり階段のほうへと向かってしまう。気が付けば、私は亮さんの名前を呼んで呼び止めていた。

「あ、あの」
「なんだよ」
「…っ、ベッドありがとうございました!」

振り返った亮さんは、私とは違って顔色ひとつ変えないで「べつに」と言ってまた背を向けてしまった。
その一拍後。思い出したように亮さんの背中が言った。

「そういや、お前に客、来てるぜ」
「っ!!」

まさか、本気で?
ついさっき、窓の外に見えた幻と思いたかった光景が頭に浮かぶ。
昨日の夜から引き続き、普段とは違うことばっかり起こるなんて、いったいなんの前触れなんだろう。
やわらかい音を鳴らして階段を下りる亮さんの足音を聞きながら、何かが軋みだす音を聴いたような気がした。