#2-9




「眠ったのか?」
「なんだ、見ていたのか」
「お前がそいつを襲わないようにな」

細く空気の漏れる、規則的な寝息が静かな部屋に響いている。
音源の膝に転がった、精神安定剤という名の安眠を誘う薬(平たく言えば睡眠薬だ)入りの特製ココアの入っていたマグカップを拾い、渋沢は曖昧に笑った。

「お前も素直じゃないな。さんを怯えさせないために、出てこなかったんだろう?」
「…言ってろ」

調理台を支えに眠る姿は、昼間の活発で生意気なこいつとも、ついさっきの脆弱で強がりなこいつとも、まったく違う。いったいどの姿が、本当の""なのか。おそらく、俺が聞いたところでこいつは、絶対に答えたりなんかしないだろう。
自分が""であることを知らない相手には、絶対に本音を見せない。その上、自分が""であることを知っている人間は信用しない。
昼と夜、ふたつの顔を初めて知った日、その事実をまざまざと魅せつけられて、抱いたのは"我が儘娘"の一言につきた。
それなのに、『じゃあ、こいつは誰になら本音を打ち明けることが出来るんだろう』なんて、考えてしまったのは何故だったのか。
人工的に作られた深い眠りを味わいながら、僅かにしかめられた眉間の皺。
ついさっきまでこいつの頭に乗っていた小動物は、いつのまにか肩へと移動し、妙にこっちを窺っている。

「…おいおい。まさか、牽制でもしてんのか?」
「さすがだな。本能で、お前が危険人物だと識別したんだろう」

失礼極まりない相方(こいつを"聖人君主"だという奴の気が知れない)の戯言を、いつもどおりに聞き流し、親指の腹で閉じた目蓋を上からなぞる。
縦に寄った皺が、いまだに直らないことが、気になった。
指が左の目蓋に触れたとき、微かに引っかかった凹凸に、時代錯誤な世襲制と馬鹿げた遺伝子の継続を、腹の底からせせら笑いたくなった。

「なぁ、渋沢。お前、一族にまつわる噂って知ってっか?」
「俺を馬鹿にしているのか?家に関わることなら、三日で消えた噂でも当然記憶しているさ」
「だよな。それならとーぜん、の直系だけがもつ、妙な特技についても知ってるよな」
「あれは噂じゃなく史実だ。第二世紀には、宮家のお抱えだったこともある」
「どーやら、それ。史実どころか今も続いてる事実みたいだぜ」

無理やりに目蓋を半分こじあけても、静かな寝息が崩れることはなかった。
左目に触れないよう、細心の注意を払って摘み出したのは、半透明の黒いレンズ。普段のこいつの瞳、同じ色だ。

「…これから、賑やかになりそうだな」
「できれば真面目に働いてくれよ。この一年、お前はさんを追い掛け回してばかりだったからな」
「それが仕事だっただろうが!」

眉間に寄せられた緊張が解けたのを確認して、手の中のカラーコンタクトレンズをごみ箱へ放った。それから、肩の上に乗ったままの小動物をどかして、警戒心零の軽い体を抱き上げる。
一応予測はしていたが、当然の如く背中に嫌味ったらしい皮肉が聞こえた。

「ベットなら、俺の部屋のが空いてるぞ」
「お前の部屋に運んだら、間違いなくこいつの一生に関わるだろ」
「失礼だな。三上と一緒にしないでくれ。そこまで俺は困ってない」
「……この会話を、録音して一度こいつに聞かせてやりたい」
「百二十パーセント、まずは音源が疑われるだろうな」
「お前、いつか後ろから刺されるぞ」
「そのときは、証拠が残らないように返り討ちにしてやるさ」

こいつの場合、本気で証拠を残さなそうだからこそ、余計に性質が悪い。いったいどうして、こんなあくどい男が特警なんて職につけたのか、今までなんど疑問に思ったことか。
だが、思いっきり感情を込めて溜め息ついたところで薄くもならないその苛立ちは、今は両腕の中で身じろぐ存在の所為で、掻き消えた。

「ったく…ほんと、無防備もいいとこだよな」
「三上」
「んだよ」
「襲うなよ」
「…アホ」

振り返らずともわかる渋沢の視線は、相も変わらず鋭い。
こっちの気もあっちの気も知らない当の本人は、どこか泣きそうな顔をしたまま、それでも穏やかな寝息を繰り返していた。