#2-8




 ドンドンッ!


真夜中だってのをお構いなしに、思いっきり裏口の木製扉を叩いた。
倖いと言うべきか、両隣は住まいになっていない店舗のみ。とりあえず、一番の被害を被るであろう相手はいない。それに、今は一刻を争う大事なとき。隣近所のことなんか気にしてられるか!
だから ――――― お願い、早く出て!

「克朗さーんっ!開けてくださいーーッ!!」

今にも泣きそうな声でもう一回扉を叩いたら、ジーンズにワイシャツ姿の克朗さんが驚いた顔で現れた。

…さん?こんな時間に、いった」
「すみません、克朗さん!私今、絶対絶命ピンチなんです!!」
「な…」
「変質者に追われてるんですっ!!お願いします、匿ってください!」
「へ、変質者!?よ、よく解からないが、とりあえず中に入って」
「ありがとうございます!」

許可を頂いたと同時に即行で靴を脱いで、お邪魔しますもそこそこにほんのり甘い香りのする厨房のコンロ影に滑り込む。
…とりあえず、後ろに気配はしなかったから、ここに逃げ込んでるってことまではばれてないはずだ。それに、さっきのモモンガくんアタックだってかなりのダメージがあったはず。
もちろん油断は出来ないからこうして隠れてるわけだけど、最悪遠くから見られてたとしても、やましい気持ちのある人が、ここに入ることはまず出来ない。一応、心理としてこんな隅っこに隠れちゃいるけど、間違いなくここは、新京都内で五指に入るくらい、安全な場所だ。

「とりあえず、後ろから追いかけてくる相手はいないみたいだよ」
「そ、そうですか。よかったー」
「そんな隅っこに隠れるなんて…よっぽどおっかない相手だったみたいだな」
「はぁ…すみません、本当。こんな夜分にいきなり押し掛けてしまって」
「別に構わないよ。俺や三上の安眠より、さんの安全の方が大切だから」

そう言って、現世に現れた仏のように微笑む克朗さんは、実は政府が派遣してきた新日本に二百二十二人しか存在しない特別警察官(略して特警)だったりする。もちろん、亮さんもおんなじだ。
ようちゃんからそれを聞いたとき、本気で腰が抜けるかってくらい驚いた。
だって、特警っていうのは、新日本の警察官の中でも特別な存在で、各地域のトップとおんなじくらいの地位が与えられてるエリート中のエリートだ。一応現場派遣がほとんどらしいけど、警察内すべての情報を無条件で得る権利を持ってるし、独自に事件を調査する権限も与えられてる。更には、必要に応じて犯人を射殺することだって出来るらしい。
特警はそれくらい大きな力が与えられる役職だから、当然選ばれる人数も少なければ基準も高い。
ふたりを見るまで、私は特警なんてただの噂でしかないと思っていたし、居たとしてもすごくいかついおじさんとかばっかりなんだろうな、って勝手に想像していたから。私と大して年の変わらないふたりがそうだと知って、世の中ってほんとにわからないと実感したものだ。
ほんとのところ、今だって半信半疑ではあるけれど、とりあえず何か困ったことがあったらここに逃げ込め、ってようちゃんに言われてるからそれだけは信じられる。


「よかったら、これをどうぞ」
「え…?」

頭に乗ったモモンガくんの存在を手で確かめ終わったころ、大きな手でまっ白なマグカップを差し出された。克朗さんの持ったカップからは、甘いココアの香りと白い湯気がふんわりと浮かんでいる。もしかして、厨房に入ったときに感じた甘い香りはこれだったんだろうか。そうだとしたら、私ってば克朗さんのココアを奪うことになっちゃうんじゃ…!

「えっと…これ、」
「大丈夫。俺のものでも三上のものでもないから。店の研究用に、試しで作っていたものなんだ。残り物みたいで気分がよくないかもしれないけど…温かいものを飲むと、落ち着くらしいからね」
「とんでもないです!あ、ありがとうございますっ!!」

正直なところ、申し訳ないと思う反面、その心遣いがすごく嬉しかった。
幸い私は猫舌といった不便な体質ではないので、八分目まで注がれたココアをそのままひとくち口に含む。喉を通り抜ける逢ったかさと甘さが、ものすごく体に染みた。こういうのを、ひとここちって言うんだろう。

「落ち着いてきたかな?」
「はい。本当に、ありがとうございます」
「さっきも言ったけど、そんなこと気にしなくていいんだよ。
 それより…変質者と言っていたけど、一体どんなやつだったのか聞いてもいいかな」

今尚、完全に安心しきれてない私の心中を察してか、克朗さんは床にしゃがみ込んだ私と視線を合わせ、尋ねた。
こんなとき、質問の内容なんかよりも先に、ここの厨房の床って綺麗だな、なんて思ってしまう私は、やっぱり緊張感に欠けるんだろうか。それとも、内側から熱をくれる、克朗さん特製のココアの所為か。

「実のところ…私にもさっぱりなんですよ。明日の朝ご飯に使うもので買い忘れがあったから出かけたんですけど、その帰りにいきなり屋根の上から話しかけられて。なんかわけわかんないこと言われたんですよね。とりあえず、知らない、って答えたら問答無用で追いかけられて」
「ここに逃げてきた、のか」
「なんか、家に走って逃げるのがちょっと怖かったので…」

本音半分、嘘半分。見極められてたらどうしよう、って不安がなかったわけじゃないけど、とりあえず辻褄だけは合ってるはずだ。
目の前で、口元を隠して思案する克朗さんは、いったい何を考えてるんだろう。特警として、どんなことを考えたら、一人前になれるんだろう。
モモンガくんが乗ってる所為か、幾分重たい頭に鞭打って、ココアの最後一滴まで飲みほした。
そういえば、三上さんはどうしてるんだろう。確か、ここで克朗さんと一緒に暮らしてるって聞いたけど、あんなに煩くしたのに姿を見せない。
それに、さっきの変質者。"オリーブの種"がどうとか、って言っていた。
世界に、七つしか存在しない奇跡の宝石、"オリーブの種"。
それを、私が持ってるって。そんな馬鹿げたこと、言っていた。

「…あ、れ…?」

考えなきゃいけないことは山ほどあるのに、頭の重さがどうしても消えない。
こんなことなら、モモンガくんを肩に乗せておくんだった。
頭、目蓋、それから体と続いてく気だるさにも似た鈍い感覚。気がついたときには、もうほとんど視界がなくなっていた。

そうして、マグカップが膝に落ちたのにも気付かぬうちに。
私の意識は消えていた。