#2-7




「あのー申し訳ないんですけど、人違いとかじゃないですか?」

倉庫の屋根に立つシルエットは、私の問いに答えるよりも先に、細いロープ一本で静かに地面に降りてきた。どうやら、収納タイプのロープらしい。そいつが近づいてくることより、そういう便利な道具を持ってることを羨ましいと思ってしまうのは、如何せん職業病ってやつなんだろうか。

、だろ?」

あと四歩。
近づけば、手を伸ばして届く距離で、その人は私の名前を口にする。
正面から見るそいつの顔は、予想外と言うか、こんな時間にこんな場所をうろつくにはあまりに若いような気がした。あーでも、私と大して歳、変わらないのかもしれないな。ちょっとばかり笑った顔が幼く見えるから、十五、六かとも思ったけれど、なんとなくそれよりも上のような気がする。
たぶん、そう感じたのは、彼の嫌に黒光りする瞳が、全く笑っていないからだろう。
頭の上に乗ったモモンガが、まるで急かすみたいに僅かに動く。
とりあえず、面倒ごとになりそうだから逃げようかな。
そう考えた矢先に、目の前の少年は口に出すのもおぞましい言葉を吐いた。

「マティアカンパニー唯一の跡取、家のひとり娘にお目にかかれて、光栄だよ」
「っ!!!」

瞬間、反射的にさっきモモンガにやった林檎の残りを投げつけていた。
私のただひとつの判断基準が、たった今この男を敵だと決めた。もしも、単なる通りすがりの人違い勘違いだったとしても、第一印象は"最悪"で登録完了だ。
相手がとっさに腕で顔を庇ったその隙に、背を向けて全速力で走り出す。おい、と引き止める声がかかったけれど、そんなのに構ってなんかいられるか。大体、本当なら第一声で逃げ出したってよかったのに、様子をみようなんて思ったのが間違いだった。

「ちょっと待てって!嫌味言ったことなら悪かったよ。俺はあんたから、オリーブの種を貰いに来ただけなんだ!」
「オリーブの種が欲しいんなら、果物屋か美術館に行きやがれ!!私がそんなもん持ってるわけないでしょーッ!!」
「うわっ。噂と違ってずいぶん口が悪い。家のお嬢様は、そういう教育受けてるわけ?」
「煩いっ!」

与志さんに教えて貰ってある秘密のルート(ほんとは使いたくないけど!)を使って新京都ターミナルを抜けたころには、いつの間にかすぐ後ろに奴の姿があった。
まずい。ウンディーネを取りに行ってちゃ追いつかれる。
仕方なく、近くの民家の窓と庇の出っ張りを使って、人通りの全くない屋根の上に飛びあがる。下を走ってたら、最悪事情を知らない知り合いと鉢合わせしかねない。
案の定、諦める素振りなんて見せずに追いかけてくる失礼にやつに、明日の朝食第二号、紙パック牛乳一リットル入りを投げつけてやった。だが、さすがにそれは避けられた。…さっきみたいに腕で受けたら、びちょびちょになって良い気味だったのに!

「おっ前なー初対面の人間に牛乳投げる奴があるか?」
「名乗る前に人の名前知ってるような、非常識人間に使う常識なんて持ってるわけないでしょ!?オリーブの種なんて知らないから、いい加減どっか行きやがれ!!」
「そっちも十分非常識だと思うけどな。とにかく一回止まってくれって」

必死こいて全速力で逃げてるこっちを後目に、妙に余裕綽々な態度が無性に腹立たしい。いっそ、いきなり立ち止まって顔面に翼直伝の拳一発でも食らわせてやろうかとも考えたけど、それを素直に受け入れてくれそうにないのは明白だ。だからといって、このままだったら確実にどこかで追いつかれてしまう。
さあ、本気でどうしてくれようか。
そう、悩んだ束の間。急に頭が軽くなった。

「なッ…!」

びっくりした、素っ頓狂な声は私が発したものじゃなくて。急ブレーキをかけて振り返ると、ついさっきまで私の頭の上にへばりついていた子が、今度はムカつく男の顔面に綺麗に張り付いているのが見えた。
しかも、タイミングばっちり。家と家の間を飛び越えてる途中だ。
これは間違いなく、落ちるだろう。と、思った矢先、耳に飛び込んできたのは夜中に不似合いの大きな騒音。確か、この真下はゴミ捨て場がある小さな路地。恐る恐る顔だけ出して下を覗いてみれば、回収の済んだ空っぽの木箱の蓋を破壊して、中にすっぽりはまった不恰好な姿。

「…痛そー」

気に食わない相手とはいえ、思わず素直な感想が口をつく。
って、こんなことしてる場合じゃない。せっかくモモンガくんが作ってくれた絶好のチャンス!今、逃げずにいつ逃げる。
落っこちた彼の顔からはがれたモモンガくんは、得意げに家の壁を登って、再び私の足元に戻ってきた。それを定位置の頭に乗っけて、彼が戻って来ないうちに走り出す。幸い、三つ先の路地に降りて、二町分走れば、安全地帯に到着できる。
もう、何万回と眺めた新京都の地図を思い出しながら、後ろを振り返らずに今は唯、ひたすらに走り続けた。