|
#2-5
空に、少し曲がりすぎた弓の形をした月が浮かんでいた。
月明かりだけでは見えない懐中時計にライトを当てて、確認した時刻は二十一時四十五分。 まだ、誰もが寝静まるには早すぎる時間だけれど、今日の最終便出航時刻が二十時ジャストだったバッカニアの倉庫付近には、まったくといっていいほど人影がない。 見回りの時間は毎日違うけど、それもちょっと調べればパターンが掴めるし、幸いというべきなのか、今日の見回り予定時刻は二十三時だから、人影がないのはある意味当然なのかもしれない。 だけど、 「与志さんが新東京にいることが多いとはいえ…この腑抜け具合はまずいと思うんだよねぇ」 一応忠告はしたけれど、今度与志さんにもしっかり伝えておかなくちゃ。 一市民である私が、大企業の運営スタイルに口を出すなんてもっての外だけど、あくまで大事な兄貴分のこと。それくらいの不名誉を被る覚悟は、私にだってある。 「ま、それも明日以降だけど、ね」 船着場にぶつかる、穏やかな波の音だけが耳に優しい静かな夜に呟く。 バッカニアの腑抜けが与志さんの不利益に繋がるのは困る。だけど、今日だけはそれに感謝したい。だって、もっと厳しい警戒だったら、不法侵入者の私までここから追い出されちゃうもん。 かくいう私が今いるのは、バッカニア新京都ターミナル船舶所の第八倉庫屋根の上。さすがに、屋根の上には防犯カメラも設置されてないから、堂々とお月見だって楽しめちゃう。もちろん、目的がお月見って訳じゃないけど。 ガタッ 「……やっと、か」 足元から響いた音に、他愛のない思考を停止して天井に開いた(というかさっき開けた)小さな隙間から中を覗く。 ―――――― ビンゴ!やっぱり、ようちゃんの情報はばっちりだ。 密かなガッツポーズを月にだけ見せる私の眼に映るのは、倉庫内の大きな木箱の中身を確認するひとりの男の姿。身につけている濃いグレーのツナギは、間違いなくバッカニア船員の制服だ。 「なるほど…やっぱり、与志さんの船を荒らしてるのは裏切り者、ってわけね」 刹那、ふつふつと体中に怒りが浸透するのがわかる。 大した思考回路を持ってるわけじゃない小悪党が、与志さんの船から盗みを働くなんて馬鹿げたこと、与志さんが認めても私は認めない。というか、裏切りなんて絶対に許すもんか。たとえ、それが善意のことだって、私は絶対許さない。それも今回の相手は、カズさんがたてた計画にまんまと嵌るような低能だ。 確証はないけれど、カズさんはおそらく、今夜十一時ごろにでも倉庫の一斉点検を行う、みたいな噂を船員たちの間に流したんだろう。 倉庫から人気が無くなるのは後片付けと明日の準備が終わる夜九時以降。点検は夜十一時。私との約束は夜十時。 間違いなく、カズさんは近くで裏切り者がこの倉庫に入ったことを確認していて、十時を過ぎてすぐに突入してくる。そんでもって、まんまと罠にかかったお馬鹿な裏切り者を捕まえて、一件落着ってわけだ。 ま、普通の悪党だったらこんな簡単にはいかないんだけどね。今回の相手は、お嬢様のペットを盗むとかあまりに大々的に動きすぎてる愚か者だし。船からものを盗むなら、大きなものから少しだけ。あくまでばれない程度、誤魔化せる程度、それが常套手段だ。なにせ、盗んだことが表ざたになれば、新日本がほこる二百二十二人の特別警察官が動き出してしまう。そうしたら、良くて投獄、悪ければその場で射殺という結果が待っている。 「まったく…そんなことも知らない小悪党が、裏切りなんて身の程知らずをするんじゃないっての」 吐いた悪態は誰が聞くわけでもないけれど。時々、言わずにはいられないのだ。 カチン、金属と金属が合わさる音で懐中時計の蓋を閉じる。 中の愚か者は知らないかもしれないけど、この倉庫の入り口は彼が入ってきた正面の大きな出入り口と、地上十メートルくらいのところにある格子のはまった四角い窓の二箇所ある。 そのうち四角い窓の方は、倉庫に不法侵入者が合った場合、信頼に足るバッカニア職員が上空から侵入できるように作られたもので、実は見え難いけど屋上からそこまで、壁についた出っ張りで移動できるようになってたりするのだ。さっすが与志さん。倉庫の設計にも余念なし。お蔭で、それを教えて貰った信頼に足るバッカニア職員以外の私も、簡単に侵入できちゃうわけだ。 「…さて、と。カズさんが来る前に、行きますか」 とりあえず、まずは裏切り者の退治から。 自然と浮かんでしまう笑顔の理由を、実は私もよく知らない。 |