#0-1




眠る野良猫。
風と踊る赤いかざぐるま。
水路に残る波紋の跡。
誰にでも平等にそそがれるあたたかな光。



「本当に、いいの?」
「うん。おじさんが認めてくれたなら、ほんとはもっとはやくに行きたかったくらいだから」

本音だった。
だから、だと思う。
おじさんは、やっぱり哀しそうに笑うのだ。

「ここを出たら、二度とお祖父さんとお祖母さんに逢えないかもしれないよ?」
「いい。ふたりに逢えることが、わたしの倖せだったわけじゃないから」

部屋の中には、伊草の匂いが残る真新しい畳。
新品みたいにピカピカの勉強机にガラス張りの戸棚。
日本の欠けた空色の地球儀。
笑ってる、お母さんの古い写真。

「……」
「やっぱり、名残惜しい?」
「…ううん。まったく逆なの。六年も過ごしたはずなのに、全然愛着がないみたい」
「そっか。
 じゃあ、そろそろ行こう。きみの決意が固いことは、確かめなくても良かったみたいだ」

こうして手が伸ばされることを、六年待った。
何もない、何も産まれない、何も起こらない六年間も今日でお終い。

「僕の家にはね、きみよりもひとつ年上の息子がいるんだ。
 この家で、結局きみは昔のように笑えなかったようだけど、きっと彼とはうまくやっていけるんじゃないかと思うよ。もちろん、僕の希望も含まれているけれどね」
「…なまえは?」
「けいすけ、だよ」

やわらかい毛布の中で過ごした六年間に背を向けて、今日からわたしは野良になる。
誰にもつかまらない、誰にもしたがわない、何も手にいれない。

胸に宿した、たったひとつの誓いのために。
十二歳の春の午後。わたしは箱庭から飛びだした。