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まぼろしのアリスと朱の兵士 「よぉ、村上」 後に第二次大規模侵攻と名付けられたあの戦いの最中、村上は太刀川に助けられた。颯爽と空から降ってきた太刀川は、その背後に一人の少女を従えて、新型のトリオン兵を玩具のように切り捨てていく。太刀川の刃で活動を停止しなかったものも、少女の追撃で小間切れになった。まったく、大したものだと素直に村上は感心した。 「じゃ、俺は行くけど、は残ってB級のサポートな」 「…了解しました」 「ふてくされんなよ。新型撃破数、俺に勝ったら入隊考えてやるから」 「忍田さんの指示から察するに、すでに無理です」 「簡単に諦めるなよな。ま、適当に気張れよ」 それだけ告げて、再び翔ぶように太刀川は去る。少女は間もなく本部からの指示で別の方角へと消えてしまったが、太刀川の背中を寂しげに眺めていた少女の瞳が、やけにくっきりと村上の中に焼き付いた。 少女の名が、だと知ったのは、それから四日後のことだった。 * * * ホームルームが終わった後の廊下は、帰り支度を済ませた学生で溢れていた。 過日の大規模侵攻以降、まだ部活動も解禁になっていないせいか、学生の動きは大体が重なるらしい。昇降口に向かって出来た波に逆らい、村上は一学年下の教室を目指していた。僅か数日前にある種の「戦争」が起こったにも関わらず、賑やかな学生たちの表情に暗い影はみられない。これが三門市に住まう人々の日常である事実と、自身も所属するボーダーという組織の影響力を肌で感じながら、隙間を縫うように歩く。間もなく視線の先に、教室の入口付近に立つ探していた人物を見つけ、村上は口を開いた。 「」 呼んだ名にこちらを向いた少女は、間違いなくあの日、太刀川と自分の前に現れた人物だった。隊服ではなく制服を身に付け、長い髪も下ろしていることで大分印象は変わっているが、彼女と目が合った瞬間、村上の中であの寂しげな瞳が蘇る。僅かな時間の邂逅だったにも関わらず、記憶から消えることがなかった光景だ。 だが、彼女の隣に立つ人物に関してはあの日と異なるようで、学ランのボタンをきっちり首元まで閉め、赤いマフラーを弛く巻いた三輪が、と同時に村上の方を向く。二人とも整った顔立ちをしているのに、揃って表情らしい表情がないところが良く似ていた。 「何か、用ですか?」 響いたのは少女特有の高いものではなく、三輪の声だった。中々に珍しい光景に驚きつつも、村上はゆっくりとかぶりを振って答える。 「いや、三輪じゃない。に用なんだ」 「私に、ですか?」 「ああ。今、少し構わないか?」 まるで予期しなかったと言わんばかりに首を小さく傾げ、と三輪が顔を見合わせる。僅かな沈黙を村上が眺めていると、周囲の喧騒に紛れてしまいそうな抑揚少ない声が鳴った。 「先に行ってて」 「…昇降口で待ってる」 「でも、」 「どうせ陽介も煩いからな」 「わかった」 短い会話には、ふたりの関係が溢れんばかりに詰まっているように村上には見えた。という少女のことを本部の友人に尋ねたとき、あの太刀川慶の弟子だと知らされただけでも驚いたのに、三輪との様子は更なる驚愕の事実だった。 当の三輪は、鋭さを交えた眼で村上を一瞥して、学生たちの波に加わった。その背が視界から消えた頃、村上は改めてへと視線を向けた。 「それで、村上先輩は何かご用ですか?」 「…オレのこと、知ってるのか?」 「攻撃手四位の村上先輩を知らないボーダー隊員は、限りなく少ないと思いますが」 柄にもなく、彼女の唇が自分の名前を紡いだことに驚いて、村上は目を瞠った。けれど、こちらを窺うを見るかぎり、彼女からすれば「知っている」ことは当たり前のことのようだ。訝しげに細められた目が語っていた。一体何の用なのだ、と。 これはまずいな。些細なことに胸を温めていた時間を省みて、村上は本題の言葉を告げた。 「にお礼が言いたかったんだ」 「……心当たりがありません」 「大規模侵攻のとき、助けてもらっただろ」 「任務の一環です。それに、あれがもし村上先輩を助けたことになるのなら、村上先輩を助けたのは慶さんです。お礼なら、慶さんに言ってください」 その姿は頑なという響きがぴったりだった。喜色の欠片も表情には浮かぶことなく、淡々とは自身にとっての事実だけを口にする。それがあまりにも彼女の師匠と違いすぎるから、村上は笑った。 「…何か可笑しいですか?」 「ああ、悪い。は太刀川さんと大分違うんだな、と思ったんだ」 「……ただ師弟関係にあるだけですから」 「何だか残念そうだな。は、どうして太刀川さんに師事しているんだ?」 「強いですから、慶さん」 キッパリと、一片の迷いも躊躇いもなく、少女は真理のように言ってのける。ただ、それだけの理由で太刀川の理不尽に付いていける人間がどれだけいるのだろう。本人の人間性だけならば、あの男より優れた人間は数多いる。にも関わらず、戦闘という一点において、ボーダー内で太刀川に勝てる相手は数えるほどしかいない。 自分とはあまりに次元が違いすぎる強さを前に、挫折する人間を村上は山ほど見てきた。人は、自分と違う他者に寛容ではいられない。太刀川の傍にいれば、だって嫌というほどに才能の差を感じるだろうに。 けれど、強さを理由と述べた彼女の瞳は、決して光を無くしてはいなかった。むしろ村上には爛々と輝いて見える。幾重かの呼吸を繰り返す間、村上はひたすらにの眼を見つめていた。 「可笑しいですか?強さが理由では」 「いや、納得したよ。太刀川さんは、現役のボーダー隊員では一番強いから」 「はい。あの人の強さに魅せられて、私はボーダーに入りましたから」 微かにの纏う空気から棘が消えたのは、自分の願望だろうか。太刀川の強さを肯定した村上に向け、が小さく笑ったように、村上には見えた。 そんな細やかな反応に、再び胸の内に温かみが灯る。ああ、やはりそうなのか。村上は内心、自分の感情にはっきりと頷いた。 「、今度オレと対戦してくれないか?」 「村上先輩とですか?」 「ああ」 「別に構いませんが、ご期待に沿えるかは、わかりませんよ。私はまだ、慶さんには程遠いですから」 「いや、太刀川さんは関係ないよ。オレはと戦いたいんだ」 小首を傾げる姿に、が村上の話を理解していないことが分かる。きっと無理はないのだろう。突然現れ、あの日の礼が言いたいと告げたにも関わらず、同じ口で戦いたいと宣う。村上には自分の行動の意味や理由がわかるけれど、に伝わらないのは明白だ。 案の定、幾分人の密度が薄くなった廊下で、はっきりと耳に届くくらいの声量でが問う。 「村上先輩は、本当は何のご用だったんですか?」 「礼が言いたかったのも本当だよ。あとは…そうだな」 なんと言えば、これは違うことなく彼女のもとに届くのだろう。言葉を探して黙り混む村上を、はじっと待っている。その真摯な瞳が、再び村上の中に焼き付いた。 答えは、その瞬間に表れた。 「ああ、そうだ」 「なんですか?」 「ただの一目惚れだ」 刹那、ぽかんと声を無くして、の瞳が丸くなる。次いで赤く染まっていった頬に噛みつきたくなった衝動を抑えて、村上は満足そうに笑った。 |