盗むのが遅すぎた春先に
まだ幼かった頃、道端に咲いた蒲公英がとても好きだった。淡く黄色に色付いた小さな花弁が何層にも折り重なって、近所の公園を鮮やかに彩る。春が少し遠退きはじめると、ふわふわの綿毛を空に満たして、まるで自分が雲を作っているような気分になれた。
大きくなるにつれて、幼い頃に感じたような特別な想いは薄れていったけれど、学校からの帰り道や、ふとした春の隙間に黄色い小さな花を足元に見つけると、心がほっと軽くなるような気がした。
でも、そんなの道端に咲いた花を見付けたから感じたもので、別に蒲公英だけが特別だなんて、考えたこともなかった。
あの日、黄色い花一輪を差し出されて、蒲公英の色を思い出すまでは。
「俺、が好きだ」
まだ私が高校一年生だったあの日、中学を卒業したばかりの後輩は淡い黄色のガーベラを差し出して、そう言った。
卒業式を終えて、そのまま私が通う高校までやって来たのだろう。彼の手にはガーベラの他に、薄っぺたいカバンと証書を入れるための筒が握られていた。学生服の右胸には、ピンで赤い造花も留められていた。そんな彼を目の前に、私は告げられた愛の告白よりも先に、彼が学校を式の途中で抜け出して来たんじゃないかと心配してしまったくらいだ。だって、彼を心配するのは小さい頃から私の役目だったから。
彼こと太刀川慶は、実家の属する町内会が同じで、子供のころから何かと面倒をみてきた一つ年下の弟分だった。小学校に上がる前までは、慶くんと、慶くんのもう一つ年下の蓮ちゃんと一緒になって、近所の公園で良く遊んだ記憶がある。
慶くんはとてもヤンチャな少年で、公園の遊具の一番天辺で片足立ちしたり、年上の男の子たちに挑んでいったり、何かと目が離せない子だった。一番お姉さんだった私は、蓮ちゃんの手を引きながら、そんな慶くんの後を追いかけて、危なくない場所まで連れていくのが役目だった。
小学校に入学して、互いに同い年の友人を作るようになって、昔ほどの交流はなくなってしまった。けれど、私が中学を卒業するまでは、同じ校舎で顔を会わせる度に世間話を交わすくらいには親しかった。
そんな慶くんの姿をこんな近距離で見るのは、一年ぶりだ。私が高校に入学してからは、家を出る時間も合わなくて、慶くんのことも蓮ちゃんのことも、母の話の中の存在だった。
だから、一年で随分と背が伸びて、少年から青年に足をかけはじめた慶くんを目の前にしても、私の中では「一つ年下の慶くん」が顔を覗かせてしまう。ガーベラに向いていた視線を上げて、珍しく余裕な表情を無くした慶くんを見つけて、私がしっかりしなくちゃ、と思ってしまった。
「慶くんが、私のこと好きだって言ってくれて、嬉しいよ」
ハッと弾けるように表情を取り戻した慶くんは、私の顔を見て瞳を翳らせた。きっとあの瞬間、慶くんにも分かったのだろう。私が決して、ガーベラを受けとるつもりがないことを。だって、私は慶くんの「良いお姉さん」でなければならなかったから。
それから、私が慶くんと話す機会はついぞ訪れなかった。
「なるほどなぁ。んで、自堕落太刀川が出来上がった、って訳か」
「さも慶くんの性格を私のせいみたいに言わないでください」
真向かいの席で失礼な事をさらりと言った諏訪くんは、何故か愉しげにニヤニヤ笑う。夏季休講中の学食は閑散としているから良いけれど、何も知らない後輩が端からみたら、とても悪役染みた笑顔だ。やんわり指摘すれば、失礼な奴だな、と文句が飛んできた。それも、やっぱり笑顔で、だ。
「失礼なのは諏訪くんもでしょ。あれで慶くんは自己がしっかりしているんだから、私に影響されるなんてないよ。だから慶くんの性格は私のせいじゃありません」
「そーかぁ?俺は結構いい読みだと思うけどな」
私の主張を真っ向から否定して、諏訪くんはちらりと視線を風間くんへと向ける。恐らく、同じく慶くんの悪癖(と書いて未提出のレポートの山と読む)の迷惑を受けている相手に同意を求めているのだろう。
学生指導に妙に熱心で、夏季休講期間にも関わらず自主ゼミを開く担当教員の鶴の一声で大学に足を運んだ私と諏訪くんとは違い、風間くんは自主的に図書館へ訪れるような真面目な人だ。高校からの同級生でもあり、それなりに人となりを知っているからこそ、風間くんが出す答えが怖くて仕方なかった。何せ風間くんは、自他共に厳しい。諏訪くんから慶くんの逸話を耳にする度、よく風間くん相手にレポートの手伝いを頼れるものだ、と別の意味で感心してしまった。いくら切羽詰まっていても、きっと私にその勇気はないだろう。もっとも、昔から私には、一歩を踏み出す勇気なんて欠片もないのだけれど。
私と諏訪くんの話をカツカレーを食しながらもしっかりと聞いていたらしい風間くんは、スプーンを置いて顔を上げる。諏訪くんと私を交互に見やり、徐に口を開いた。
「アレの性格は本人の責任だろう」
無意識に張り詰めた自分の周囲の空気があっという間に霧散する。これで風間くんに諏訪くんの味方をされてしまっていたら、流石に慶くんの性格更生に乗り出さねばならないところだった。けれど、そんな私のささやかな安堵は次いで風間くんの口から飛び出た言葉によって、あっという間に打ち砕かれてしまった。
「だが、の話を聞く限り、太刀川の恋愛遍歴については、の影響が強いようだな」
「う…っ」
「なんだ、自覚はあったのか」
「いや、その…自覚というか…もしかしたらそうかも、くらいには」
「もしかしたら、じゃねーだろ。ちなみにお前、なんて言って太刀川のこと振ったんだよ」
「……『きっと今は、私が一番近くにいたから「恋」してるって思っているだけだよ。慶くんはまだ中学生だから、もっとたくさんの経験をして、たくさんの人と出逢って、大人になってほしいの。そうしたら、きっともっと素敵な人に出逢えるよ』」
「……お前、高一で相当な悪女だな」
「なるほどな。その言葉を受けて、太刀川は付き合っては別れてを繰り返している訳か」
グサグサグサと鈍い効果音と共に胸のあたりに尖ったものが突きつけられている心地だった。風間くんは率直な意見を述べているだけだとわかるし、諏訪くんだって悪意がないことは知っているからこそ、余計に突き刺さる。
けれどあの時、慶くんに告げた言葉に嘘なんてひとつもなかった。あの瞬間、本気で慶くんは「恋」に恋しているだけだと思ったし、高校生になって世界が広がれば、本当の意味で誰かに恋するだろうと信じていた。本音を言えば、年上の私なんかじゃなく、若くて美人でしっかり者の蓮ちゃんこそ、慶くんとお似合いだと思っていたから、将来は二人の結婚式に呼んでほしいとか、密かに想像していたくらいだ。
ただ、それは全部、私の願望が生んでしまった間違いだと、今なら解かる。あの日の慶くんの表情や、私の言葉を聞いた後の震えた手、引き結ばれた唇、感情を失くした瞳の色。その総てが教えていた。慶くんは、本気だったのだ、と。「年上のお姉さん」にではなくて、「」に恋をしてくれていたのだと言うことを。
「…慶くんの前では、しっかりもののお姉さん、で居たかったの」
「その結果、お前の発言は間違いなく太刀川に多大な影響を与えたな」
「だって慶くんには蓮ちゃんと結婚してもらいたかったんだもん…」
「お前それ、月見に言うなよ、絶対」
高校に入学してからの慶くんは、たくさんの女の子と付き合っていた、と蓮ちゃんから聞いた時には、心臓が握り潰されるくらいに傷んだ。もしかして、私の言葉が慶くんをそうさせてしまったのだろうか、と自意識過剰にも考えて悔やむことしかできなかった。
同じ大学に通う今も、慶くんの噂はよく耳にする。告白されれば誰とでも付き合うとか、付き合っても全然彼女を大事にしないとか、慶くんと一ヵ月持った子はいないとか。私自身、慶くんを遠くから見かけることはあっても、接点なんて欠片もないのに、目立つ慶くんの話はいたるところからやってくる。そして、その度に体中の温度が下がる気がした。後悔は先には来ないと言うけれど、本当だった。何度目か分からない後悔の渦に押し潰されて、思わず学食のテーブルに顔を埋める。私は間違いなくあの日、選択を間違えてしまった。
「ただ、慶くんに幸せになってほしかっただけなのに……」
「まーなんだ。青春の黒歴史とでも刻んどけ。…って、おい、アレ」
「…。太刀川の誕生日はいつだ」
テーブルに突っ伏したまま、暗い視界の中で風間くんの脈略のない質問に答える。日付を述べてから、そういえば今日だった、と気が付いた。慶くんのメールアドレスすら知らない私はもう何年もお祝いしていないけれど、せっかくの二十歳の誕生日。風間くんか諏訪くんに頼んで、プレゼントを渡してもらうのもいいかもしれない。
そんな、とりとめのないことを考えていた私の耳に、とても懐かしい、思い出の中の声が届く。
「」
まるで昔語りの中か、私の頭の中で響いたもののように思えて、それが一体誰のものだったのか理解するまでに思いのほか時間を必要とした。
ゆるゆると顔を上げて声の主を見れば、今まさに私の頭を占めていた人物が、黄色に染まった花束を抱えて立っていた。
「……慶、くん?」
「これ」
いつも遠くから眺めるだけだった慶くんがそこに居て、なぜか私に花束を突き付けてくる。何一つ理解が追い付かず、瞬きを繰り返すしかできない私に、慶くんは言った。
「俺、が好きだ」
「え……」
「に言われたとおり、いろんなヤツと付き合ってみたけど、結局変わらなかった。大人になっても変わらないんだから、きっとこの先も同じだろ」
「………」
「が、好きだ」
すぐそばには諏訪くんも風間くんもいるのに、そんなこと気にもとめない様子で慶くんは言う。私はと言えば、まるであの日をなぞるように、慶くんが差し出してくれる黄色い花束を見つめていた。五年前はガーベラ一本だった花は、ひまわりやバラ、フリージアと種類も数も増やして豪華な花束に変わっていた。まるで、月日とともに積み重なった、誰かの想いのように。
花束に向いていた視線を上げて、ゆっくりと慶くんと視線を合わせる。もう、幼さなんて欠片もない男性の顔がそこにはあって、思わず息を呑んでしまった。
きっと、もう私は「良いお姉さん」なんかではいられないのだ。
「ねえ、慶くん」
「…なんだよ」
「どうしてあの日も今日も、黄色い花を選んだの?」
「だってお前、黄色い花好きだったろ。昔から」
さも当然と言わんばかりの慶くんの言葉に、ふわりと笑みが浮かぶ。私でさえ知らなかった事実を、慶くんはずっと知っていた。そんな事実が、軋んでいたはずの心臓を掬い上げてくれた気がして、ようやく解かった。あの日使えなかった勇気が、今ならば使える気がした。
「慶くんが、私のこと好きだって言ってくれて、嬉しいよ」
思い出の中の言葉をなぞって、差し出された花束に手を伸ばす。もう、慶くんの瞳が翳ることはなかった。
千田様主催企画「あの日」に提出させていただきました。
太刀川さんなら、「大人=二十歳」と素直に思い込んでくれそう。
素敵な企画をありがとうございました!
(title by 昼食)
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太刀川さんなら、「大人=二十歳」と素直に思い込んでくれそう。
素敵な企画をありがとうございました!
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