臆病者の黒猫たちの恋


不器用で臆病な俺は、微かに頬を赤く染めた彼女を前に固まることしか出来なかった。

「好きですよ、辻くんのこと。もちろん、男の子的な意味で」

冗談混じりに問いかけた犬飼先輩だって、こんな答えが返ってくるなんて少しも想像しなかっただろう。ただ、さんがよく俺に声をかけてくるから、ちょっとした世間話とか、悪戯心で口にしたに違いない。このコミュニケーション能力の塊のような先輩が、無闇矢鱈に他人の心の境界線を無遠慮に越えるわけがないのだから。
しかも相手は、同じくコミュニケーション力を具現化したような存在であるさんだ。中学の時に一度同じクラスになっただけの対象である俺にすら気さくに声をかけ、高校でもボーダーでも、何時だって周囲に明るい声が絶えないような子だ。犬飼先輩の軽口のニュアンスを汲み取れなかった訳でも、犬飼先輩が求める回答がどんなものなのかも、全てわかっていたはずだ。
それなのに、さんは僅かに悩んだ後で、まさかの言葉を口にした。俺だけじゃない、流石の犬飼先輩も凍りつかせるような一言を。

「まあ、脈なしなのは解ってるんですけどね。私じゃ、氷見先輩にはなれないし。でも、諦めきれないから困っちゃうんです」
ちゃん…きみ、」
「あ!ごめんなさい、犬飼先輩!この後、陽介とランク戦の約束してるんです。また今度、ご指導お願いしますね!」

普段よりも幾分早い口調で、叩きつけるようにさんが告げる。とても会話とは言えない言葉を残して、犬飼先輩が何を返すまもなくさんは背中を見せて走っていってしまった。それは、とてもさんらしくない行動だった。
けれど、ならばさんらしい行動とはなんだろう。ただ、いつだって彼女に話しかけられるのを待っているだけの俺が、さんの何を知っているんだろう。
中学生だったころから、さんはグラスの中心だった。それなりに成績もよく、何より面倒見の良い性格をしていたから、クラスの委員長を務め、イベントの度に皆を引っ張っていた。俺のような対女子免疫の皆無な相手にも、度々声をかけ、絶妙なバランスで気遣ってくれた。それこそ、俺の態度が欠片も改善しないどころか、悪化したってさんの態度は変わらなかった。
クラスが重なったのは一度きりだが、ボーダーに入隊してから、また彼女を頻繁に見かけるようになった。
同級生同士で模擬戦をする姿。先輩に頭を下げて教えを乞う姿。成長に悩む後輩の相談を受け、道を示す姿。様々な場面で、沢山のさんを見てきた。
けれど、そのどれにも俺は居なくて、いつだって俺は、さんの言葉を待っていた。米屋と肩を叩き合っているときも、出水と射手の戦法を議論しているときも、奈良坂や三輪と勉強しているときも、何時も眺めるだけだった。
だって俺には―――彼女に見合うものが、ただのひとつもないのだから。

「つーじっ!!」

身動ぎひとつできなかった俺の背中で、バンッと大きな音と衝撃が鳴る。名前を呼ばれた方へ視線を向ければ、珍しく笑みと呼べる表情の取れた犬飼先輩がそこに居た。

「追いかけろよ。今なら、追い付けるだろ」

剣呑な光を瞳に宿し、犬飼先輩が言う。追いかける?俺が、さんを?思いもしていなかった選択肢に、やはり俺は動けない。足ひとつ、声帯ひとつも、震えてさえくれないのだ。こんな俺に、彼女を追いかけてどうしろと言うんだろう。あの眩しい強さに焦がれるだけの俺に、一体何を出来ると言うんだろう。
ピクリともしない俺に何を思ったのか、犬飼先輩は首を回してさんが走り去った方へと顔を向けた。犬飼先輩の横顔には、未だに表情らしい表情が浮かんではおらず、俺の背をゾッと冷たいものが走り抜けて行く。トリオン兵を前にしたって、こんな感覚には陥らない。犬飼先輩の静かな怒りに、俺は恐怖しているのだろうか。

「強くなんかないよ、ちゃんは」

痛いほどの静かな声で、犬飼先輩は言う。

「あの子、中学ん時の同級生だって言ってたよな。しかも、お前に何度も声をかけてきたって」
「…はい」
「俺がちゃんだったら、興味もない相手には何度も声かけない。しかも辻ちゃんみたいな奴には、女の子は出来る限り近づかない方が親切だろ」
「そう…かもしれません」

ぼんやりと靄の晴れない頭で、犬飼先輩の言葉を噛み砕く。犬飼先輩は俺に告げている。さんの行動の真意を読め、と。戦闘中なら自然と行えているはずのことが、何故か今は上手くいかない。
意味を成さない単語の羅列が頭の中を駆け巡るなか、それに紛れて様々なさんの姿が浮かぶ。そういえば、さっきのさんは普段と全然違っていた。早口で、紅潮していて。そしてどこか、寂しそうではなかっただろうか。声は掠れて震えていたし、視線の先もぶれてはいなかったか。
赤くなった顔と走る言葉は愛しさが生む緊張のせいで、震える声は相手に可笑しなことを言っていないかと不安になる恐怖のせいで。そして、嬉しさと相まって生じる寂しさは、どれだけ焦がれても、決して振り向いてはもらえないと確信しているせいだ。
それはまるで、さんと話す時の、俺のように。

「…俺と、同じ?まさか、」
「それを確かめたかったら、今すぐに行けよ。米屋くんにかっ浚われても知らないぞ」

つい今しがたまで固まっていた足が嘘のように、犬飼先輩のはにかみを合図にした始めの一歩は簡単に動きだした。駆け出す速度を上げる前に一度振り返った先には、ようやく何時もの皮肉めいた笑みを浮かべた犬飼先輩の姿。ありったけの感謝を込めた頭を軽く下げ、俺は再び前を向いた。
まさか、そんなことが、あるはずがない。
頭の中で未だ繰り返される否定は、震えながらも確かに紡がれたさんの言葉で消えていく。けれど、それでも消しきれない不安に決着を付けるため、廊下を駆けていく。
その答えはきっと、彼女しか持っていないのだから。



犬飼先輩は恋のキューピッドとなり得るか。
( close )