愚者の定理


本部の作戦室を訪ねると、予想通りと言うべきか、不機嫌に服を着せたような状態の風間が待っていた。普段はお世辞にも多彩な表情を持っているとは言い難いこの男にしては珍しいことだが、木崎は特に意外に感じることはなかった。大学で彼女に逢ったときから、何かあるだろうとは予測していたのだ。むしろ、自棄を起こして後輩を切り刻んでいないだけましだろう。

「……何の用だ、木崎」
「届け物だ。からお前に渡してほしいと頼まれた」


「木崎くん、これから風間くんに会う予定、あるかな。迷惑じゃなかったら、これ、風間くんに渡してほしいの」

甦るのは、講義終わりに声をかけてきた同い年の彼女の声。躊躇いがちに問うてきた様子は、普段の以上に儚げで消え入りそうだった。
もともと自己主張の強いタイプではなかったが、芯の通った、不思議と誰に対しても物怖じしない、ある意味で強情な人間だと彼女を認識していた木崎には、少しばかり意外だった。彼女の様子もそうだが、何より翌日の講義で会うはずの相手への届けものを、わざわざ他人に頼むという行為が、珍しかったのだ。
尋ねれば、別に急ぎの案件でも、明日の講義をどちらかが欠席するわけでもないと言う。あまりにもらしくない回答に理由を問えば、ただ一言、は言った。

「風間くんに…合わせる顔がないの。私が、臆病だから」

その時のは、泣きながら笑っているようだったから、木崎はそれ以上踏み込むこともできず、彼女から一冊のノートを受け取って別れることしかできなかった。


今、風間の眼前にから受け取ったノートを差し出せば、無言のまま紅い瞳がじっとそれを見据える。ノートの表紙には、癖の少ないの字で彼女の名前が書かれている。風間が任務で講義を休んだ後に、同じ講義を取っているがノートやプリントを 風間に渡している光景は何度も見たことがあった。けれど、それを自分が肩代わりしたのは初めてだ。随分と居心地の悪い沈黙に、木崎は眉を顰める。
どのくらいの時間が経ったのか。音もなく伸びてきた風間の手が、ノートの端を掴んだ。徐に手元に引き寄せて、その感触を確かめるようにノートの表紙を指で辿る。先ほどよりも、僅かに薄れた怒気に、木崎は内心安堵の息を吐いた。

「それで、お前はに何かしたのか?随分と落ち込んでいるように見えたぞ」
「…落ち込んでいた、か」

ふっと嘲るように浮かべられた苦笑には、風間の幽かな後悔が混じっているように見えた。本当に珍しいこともあるものだ。この男は、自分がそうと信じた道を信念を持って進むことができる人間だ。他者に厳しく、自分にも厳しい。そんな典型を素で行くような風間が、こうも気落ちする姿は貴重としか言いようがない。
だが、木崎には確かな見解もあった。これだけ風間を揺さぶることができる相手が居るとすれば、それは間違いなく以外にない。そして、それはきっと、にとっても言えることだと、木崎は確信していた。

「ああ、あのが珍しく気落ちしていた。それから、お前に合わせる顔がないと言っていた。自分が臆病な所為だとも、な」
「そうか…らしいな」
「あいつに何か言ったのか?」
「何か、か。…そうだな。に、好きだと言った」

風間の言葉に、木崎は驚きのあまり二の句を紡ぐことができなかった。好きだと、言った?誰が、誰にだ。脳内で風間との顔が浮かんではぐるぐると廻る。
だが、冷静になりつつ頭の片隅は、風間がに好きだといった事実を現実として受け止めてもいた。風間がに好意を持っていることは、随分前から知っていたことだ。そして、も風間を憎からず想っているように見えた。
だが、風間との想いの重さには、まだまだ隔たりがあった。少なくとも、木崎はそう認識していた。風間はもう一年以上前からに対して特別な感情を抱いていたが、はそうではない。大切な友人のひとりではあっても、それが異性としての感情だったかどうかは、定かではないように見えた。
だからこそ、木崎は風間の行動に驚きを覚えざるを得なかった。勝算のない勝負に風間が挑むなんて。いったい、何が奴を駆り立てたのか、木崎にはわからなかった。

「そう、か…随分と急だったな」
「確かにそう思われるだろうな」
「何か、切っ掛けでもあったのか?」
がボーダーに内々定が決まったそうだ」

不意に風間の目線が手元から逸れ、何もない空を見据える。まるで風間自身が過去を辿っているようだ。恐らく、と交わした会話でも手繰っているのだろう。木崎は相槌を打ちながら、じっと風間の言葉の続きを待った。

「大学卒業までの期間は、見習いとして開発室で働くらしい」
「喜ばしいことじゃないか。は入学当初から、ボーダーの研究員を目指していたんだろう」
「まあ、そうだな。論文が認められて本人も喜んでいた」
「内々定の時期としては随分早いが、見習いでも開発室入りできるなら、念願叶ったりじゃないか」
にとってはな」

再び自嘲気味に哂った風間の表情は、どうにも暗い。彼がの門出を祝えないような狭量な男だとは思っていないが、この態度はなんだろう。木崎は風間の言葉の端々から意図を読み取ろうと苦慮するも、答えは結局浮かばなかった。
何も返答できない木崎に気を使ったのか、風間はもう一度手元に視線を落とし、口惜しそうに零した。

「あいつがボーダーに入る前に、けりを付けておきたかった。それだけだ」
「それはまた…お前にしては珍しく、随分焦ったな」
「そうかもな。それだけ、不安要素が大きいように思えたんだろう」

風間の嘆息に、木崎は漸く理解した。風間の焦りが一体どこにあったのかを。この男にも、随分と年相応の人間らしい部分があったものだ。どうやら風間は、人並みに嫉妬していたらしい。それも、まだ存在すら明らかになっていない、明らかになるかもわからない未来の敵に対して。

「まあ……あれだ。あまりを困らせてやるなよ」

どうせ諦める気はないんだろう、という意を言葉の端に滲ませて告げれば、風間は無表情のまま大きく頷いた。

「当然だ。もう、待っていられないからな」

はてさて、本気で攻めの一手を打ち出す気満々の風間を相手に、どれだけが耐えきれるだろうか。それとも、別の一手が思いもよらないところから現れることもあるのだろうか。
楽しげに彼女の文字をなぞる風間を横目にした木崎には、本人の知らぬところで幕を開けた決戦の当事者であるに対して、影ながら激励を送ることしかできそうにはなかった。



研究員見習いと若者らしい風間さん。
研究員のスカウト事情とかは捏造です。

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