神様もいらない


※捏造設定あり。 ボーダー本部の屋上から眺める三門市は、今日も変わらぬ佇まいでそこにあった。はあ、と吐いた息が白いのも、空が青く広がっていることも、風が頬を冷たく撫でていくことも変わらない。そんな当たり前が嬉しいはずなのに、心の底、一番冷静な部分が泣いている気がした。

「冷えると馬鹿でも風邪引くぞー」
「陽介」
「ほれ、使えよ」

音も気配もなく、いつの間にか現れた陽介が、私の首に赤いマフラーを巻く。寒いのは陽介も同じはずだ、と問えば、彼はトリオン体なのだと言う。なんとも用意周到なものだ。何より、私にトリオン体になる気がないことを分かっている辺り、陽介は抜け目がない。

「…ありがと。これ、陽介のマフラー?」
「と、思うじゃん?」
「違うの?」
「そ。秀次が持っていけ、ってさ」
「三輪くんが…」

知っていたことだけど、私の周りには優しい人間が多い。陽介、三輪くん、公平、奈良坂くん、太刀川さん、柚宇さん。挙げていけば切りがない温もりに、またしても心の奥底が囁いた。私には、勿体ないと。

「んで、今日のさんはおセンチな気分ってか?」
「陽介と違っていろいろ悩みも多いもので」
「言うねぇ。オレと成績、大して変わんねーくせに」
「学校の成績と繊細さは関係ないんですー」
「繊細とか、似合わなすぎだろ」

ケラケラと軽い調子で笑う陽介が隣にいることで、どのくらい救われて、どのくらい痛め付けられているのか。三輪くんのマフラーに鼻を埋めて、私は私の在処を探す。私の心はあの日から私にも掴めないところにあって、私は今もあの日をさ迷っているのだ。
それが、馬鹿みたいな逃避だってわかってるくせに、抜け出せないのだ。

「なあ」

不意に、真剣な陽介の声が空気に溶けて私に届く。彼が、何を言いたいのか解かっているつもりだ。
いい加減、立ち直れ。もう過去のことだろ。辛いのはお前だけじゃないんだ。いつまで其処で蹲っているつもりだ。
続く言葉なら、いくらだって思いつく。だってそれは全部、私の心が私に向かって毎日叫んでいる言葉だから。
わかってる、言われなくたってわかってる。でも、無理なのだ。駄目なのだ。まだ私は、歩き出せる気がしないのだ。
次に陽介の口が動き出すのが怖くて、逃げるように顔を背ける。視界一面には、私が住む、私たちが守るべき街が広がる。ああ、駄目だ。私にはもう、この街を、人を守る資格なんてないんだ。込み上げてくる恐怖と絶望に、足が震えるようだった。ただ立っていることだけが辛くて、柵に向かって手を伸ばす。けれど、それが冷たい金属に触れるよりも先に、別の何かに触れてしまった。

「おーおーすげー冷えてんじゃん。さすがに手袋は持ってこなかったんだよなー」
「……陽介、手」
「ん?なんか言った?」
「手、なんで…」
「んーまあ、あれだ。手袋代わり?」
「私に聞かれても困る」

大体、トリオン体の手のひらは実体とは違う。手袋の代わりになんてならないことは分かっているくせに、陽介は決して私の手のひらを放そうとはしなかった。
温かくなんてない。ただの風よけにしかならない。そう、わかっているはずなのに。なぜか私の心は冷たい水の中から救い出されて、たき火の前に曝されたような気分になる。

「…はさ」
「うん」
「オレらにいつか見捨てられる、とか思ってんのかも知れねーけど」
「…うん」
「別に、そのままでもいいと思うぜ。今のまんま、おセンチなお前でも」

ねえ、なんで。どうして。救われちゃいけないってわかってる。私にはもう、縋れるものはないんだって知ってる。理解している。それなのに、どうしてみんな、手を伸ばしてくれるの?抱きしめてくれるの?
だって、だって私は――――ひとをころしたのだ。

「陽介は、眩しいね」
「オレが?それはねーだろ。オレ、目立つタイプじゃねーし」
「うそばっか。三輪くんも私も、陽介のバカみたいなとこに、助けられてるよ」
さん、それ褒めてんの?けなしてんの?」
「最大級の褒め言葉でしょ」

眩しすぎて、目を背けても無駄なくらい、陽介は周囲を照らす。それこそ、私の過去も、罪悪感も、罪も、罰も、全部を明るく暴いてしまう。
そう、私は丁度一年前の今日、ひとをころした。その事実さえ、陽介は掬い上げようとしてくれる。
あの日、遠征先で交戦した人型近界民を私はイーグレットで撃ち抜いた。相手もトリオン体だったから、私の弾が当たったからといって致命傷になるわけがなかった。ただ、戦う術を奪うだけ。目的はそれだけだったのだ。別に弟を近界民に殺された恨みを晴らそうとか、そんなこと、欠片も考えていなかった。それなのに、私が放った弾丸は、直前にトリオン体を太刀川さんの手によって破壊された近界民の実体を容赦なく貫いて。そのひとは間違いなく、私の弾丸によって、命を落としたのだ。
人型近界民の命を奪ったことは、確かに私にとって衝撃的なことだった。その事実は私の胸に重たい楔のように打ちつけられて、抜ける気配をみせない。けれど、それ以上に私にとって辛かったのは、その後も変わらず、私がイーグレットを打ち続けられた事実だった。何も変わらず、学校に通って、友だちと笑い合っている現実だった。
私は、ひとをころした。けれど、それを悔やむことなく、躊躇うことなく、今なおひとをころす術を持ち続けている。
それが、私には怖いのだ。私がもう私ではないみたいで、昔の無垢な私はどこかに消えてしまったみたいで。
あの日以来、私の中にはもう一人の私が居て、常に問いかけてくる。私はもう、みんなと同じじゃないんだと。そこに立っていることが、間違いなのではないのかと。ずっと、もう、何度も。

「そんじゃあさ」

だから私は今も、A級一位の部隊のスナイパーとしてイーグレットを構えて、近界民を撃ち続ける。いつか、私を裁く誰かが、現れるまで。
けれど陽介は、そんな私のことなんかお構いなしに、私の手を握ったまま、私の絶望を嗤うのだ。

「お前にはオレが眩しくみえるって言うなら、オレがお前の傍にいてやるよ。んで、お前がもう一回明るい道を歩きたいなら手を引っ張って行ってやるし、お前がもっと暗いところに堕ちていくっていうなら、付いてってやる」
「…な、に…それ」
「別にいーだろ。どこに行くかはオレの勝手だからな」
「意味わかんないよ…頭悪いんじゃないの、って悪いのか」
「うわ、ひでーな、事実だけど。ま、あれだ。お前はお前が変わったっていうけど、オレらから見たお前は、相変わらずのだったってことだ」
「…っ」

そう言って、口元だけで笑った陽介があまりにも綺麗だったから。
いけないことだと解かっていながら、弱い私は必死になって両手を伸ばして、彼の隊服に向かって飛び込んでいった。温かさをくれるのは三輪くんのマフラーだけなはずなのに、なぜか全身が陽だまりに包まれている気がした。



米屋はきっと、どこまでも付いてきてくれる。
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