バイバイ、イエスタディ
待機任務の後は、無性に身体を動かしたくなる。今日も例に漏れずやってきた衝動を発散しようと、私はランク戦のロビーを訪れていた。
同じ色彩の隊服を身に纏った沢山のC級隊員たちに、まるで高校か中学にでも迷いこんだような錯覚を覚えるのも、何時ものことだ。名前も知らない後輩たちの中に知った顔がないかと、フロアを見渡す。けれど、こんな日に限って右に左に視線を動かしても、知り合いと呼べる相手が見つからない。もう少しだけ、待ってみようかな。仕方なしに入口付近の壁に背中を預け、ポケットから取り出したスマートフォンに視線を落とした。
それが、今日の私の過ちだった。
「あっ!迅さん!!」
甲高い声にハッと顔を上げる。けれど、もう遅かった。いくら明日の講義で使う資料だからって、意識を画面に向けすぎていた。
だから、この男がこんなに近くに居たことにさえ、気がつけなかったのだ。
「あ…ばれちゃったか」
「……」
「すごい集中してたな。大学の課題?」
「……」
「は偉いよな。奨学金もらって、大学通いながらアルバイトに防衛任務。ちゃんと休ん」
「迅さん、こっち来てるなんて珍しいね!」
声をかけられようと、名前を呼ばれようと決して顔を上げる訳にはいかない。ひたすらに悠一の言葉を聞き流していた私にとっては、乱入してきた元気な声は救いに聞こえた。もちろん、声の主である緑川くんからしたら、敬愛する『迅悠一嫌い』を隠しもしない私なんか、敵対すべき相手でしかないのだけれど。
案の定と言うべきか、緑川くんの方へと目だけを向ければ、敵意むき出しなギラギラとした瞳とかち合った。その様子に、以前米屋くんが緑川くんを犬っころと表していたことを思い出す。それだけで幼い敵意すら、可愛く見えてしまうから不思議だ。
「ねぇ迅さん、時間あるなら模擬戦付き合ってよ!俺、前より強くなったよ」
「あー駿。俺、今はと話してて」
「別にいーじゃん、こんな人。それより迅さん、今日は何で本部に来てるの?いつまで居られるの?」
矢継ぎ早に紡がれる緑川くんの言葉に、さすがの悠一も口を挟めないのか、若干押され気味だ。丁度、私と悠一の間に割り込んでくれた緑川くんを盾に、出来る限りの悠一の方を見ないようにしながら、少しずつ二人から離れていく。すぐに背を向けては、引き止められるかもしれない。そうしたら、またあの下心を公言するお節介な男に、付け入る隙を与えてしまいそうで、無性に嫌だった。
けれど、悠一相手にこっそり消えるなんて、出来るわけもなく。緑川くんの声を無理矢理に遮って、どこか不機嫌な悠一の声が響いた。
「悪いけど、駿。俺はと模擬戦するから、また今度な」
「え…、さんと…?」
「ああ。だって、模擬戦の相手を探してたんだろ?」
だろ、と確信しか含まない悠一の声音を、決して顔を上げずに耳だけで拾う。それすら遮断してしまえばいいのに、思い出を逃げ場にする弱い私には耳を塞ぐ術はなかった。
私の視界に映るのは、手元のスマートフォンだけ。きっと、昔のように優しく笑ってるであろう悠一も、苛立ちを隠さない緑川くんも、私には関係ないのだと。頭の中で何度も何度も繰り返し唱える。
私は迅悠一が嫌い。胡散臭くて、いつも余裕ぶって、飄々と「実力派エリート」なんて名乗る、この男が嫌いなのだ。
嫌い、嫌いと心に訴え続ける度に、スマートフォンを握る手の力が強くなる。奥歯を噛み締めて無表情を装っても、段々と身体中が冷たくなっていくのも分かった。
何度も、何度でもこんなことを繰り返して、きっと今日も私は温もりを求めて、思い出にすがるんだろう。それは最上さんが逝ってから、当たり前の日常のはずなのに、なぜだか今日はモヤモヤとした違和感を感じてしまった。当たり前のことが、そのまま呑み込めないような、喉に引っ掛かるような不和。
どうして、と自分の中に問いかけるうち、姿をみせたひとつの事実は、私を愕然とさせるには十分だった。
私はいつの間に、目の前の男を「悠一」と、昔みたいに呼んでいたんだろう。
「……模擬戦の」
もう耳にすら入ってこない悠一と緑川くんのやり取りが、私の掠れた声でピタリと止まる。
悠一を前に、言葉を紡ぐのは何年ぶりだろう。何時だって私は、悠一の前では必死だった。彼を嫌いだと嘯くために、彼に見棄ててもらうために。それこそ、何か一言でも口にしてしまえば、泣きついてしまいそうで怖かった。幼い日の私のままに、大好きな兄弟子にすがってしまいそうで、唇を引き結ぶしか出来なかった。
そうやって、頑なに固め続けてきたはずの心は、この間の涙と一緒に、少しだけ緩くなってしまったのかもしれない。私は少しだけ、本当に少しだけ、嵐山の言葉の意味が分かった気がした。きっと、悠一には関係なかったのだ。私がどんな態度を取ったって、悠一の眼にはきっと、ただの強がりだって悟られていたのだろう。
ゆるゆると顔を上げて、数年ぶりの距離感で兄弟子を見据える。あ、こんな顔だった。不意に胸に広がった温もりに、眦も自然と弛んだ気がした。
「模擬戦の相手、してあげたら?私は他の人を探すから、心配しないで」
「あ…あぁ、えっ」
「なに、その返事。緑川くんは悠一と対戦したいって言ってるんだから、付き合ってあげなさいよ。先輩でしょ」
途端、眼前の悠一の顔がみるみる赤みを増していく。何が悠一の琴線に触れたのか、わからない訳ではなかったけれど、私は気が付かない振りをした。
未だぽかんとしたままの緑川くんの方を向き、出来うる限りの笑みを作る。それじゃあ、と手を振って背を向ければ、僅かな間の後で、元気な感謝の声が響いた。
私にも、あんな風に無邪気に悠一と対戦に明け暮れていた過去があったね。頑な決意を変える気にはなれないけれど、融け出した心は、素直に悠一との思い出を描く。
悠一に見棄ててほしい、と願う気持ちが消えたわけじゃない。私は今だって願ってる。悠一が、私じゃないみんなを優先してくれる未来を。そして何より、悠一自身を一番に考えてくれることを、願ってる。
でも、嵐山の言ったとおり、私が必死に悠一を嫌っても、それは叶わないのかもしれない。固まった心ではわからなかったことが、僅かに見えた気がした。
きっと、今日は記憶にすがらなくても立っていられる。その代わり、何故だか少し嵐山に逢いたくなったのは、私だけの秘密だ。
嵐山の影響で、少しだけ優しくなれたら。
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