バイバイ、イエスタディ
一年中空調が管理された施設の中でも、温まりたくなる瞬間がある。今がまさにその時で、冷えた指先を温めようと、自動販売機に小銭を入れた。選ぶのはいつも迷うことなく甘さ控えめのカフェラテで、赤く点灯したボタンを押すとガコンと大きな音が静かな廊下に鳴り響いた。
適度に熱を帯びた缶を取り出して、すぐ脇のベンチに腰をおろす。座り込んだ途端に口からは、長い長い息が溢れ出た。自分で思っている以上に、疲弊しているみたいだ。なんとなしに手のひらで缶を転がして、温もりを確かめる。不意に、隣に人の気配を感じたのは、指の感覚が戻り始めた時だった。
「迅のやつ、凹んでたぞ」
言葉の内容のわりに、かけられた声には、欠片も私を責める様子はない。この男のこんなところが、凄いと思うと同時に苦手だった。私のことなんて、気にしなければ良いのに。
「話しかけられたのに無視したんだろ。あんまり冷たくしてやるなよ」
「嵐山には関係ないでしょ」
「関係なくなんかないさ。迅は友達だからな。友人が凹んでたら、なんとかしたくなるもんだろ」
視線をカフェラテに注いだままでも、彼が私のことを見ていることがわかる。拒絶する隙すら与えず隣に座った嵐山は意外に曲者だ。大体、私が迅を無視するのは初めてのことでもないのに、何度も何度も彼はやってくる。いい加減、私を諦めてほしいのだ。
「なら、あいつに凹むのをやめろ、って言ってよ。もういい加減、私があいつを嫌いなのはわかったでしょ」
「でも、迅はが好きなんだろ?たったひとりの妹弟子なんだ。またと昔みたいに仲良くなりたいんだよ、迅は」
「それは無理な注文ね。だって、私はあいつが嫌いだから」
その一言を、呼吸と同じように口にできるようになったのは何時からだったろう。最上さんが死んだときは、まだ無理だった。私には風刃を起動できなくて絶望したときには、ぎこちなくとも口にしていた。そして、あいつが他の候補者を蹴散らして風刃の持ち主になったときには、もう今のように振る舞えていた気がする。
それくらい、私の『迅悠一嫌い』は年期が入ったもので、否定される要素も、諭される隙間も無いはずなのに。
「違うさ。は迅が嫌いな訳じゃないだろ」
嵐山は、何時だって私を否定する。隣に座って、ただ静かに確実に、私の心を違うと言うのだ。
「違ってなんかない。昔は昔で、今の私はあいつが嫌いなの。胡散臭くて、私に出来ないことをあっさりやってのけるあいつが、嫌なの。いい加減、わかってよ。女心がわからない男ね」
「女心は…なんとも言えないが、の心ならわかるさ」
「わかってないでしょ」
「わかるよ、多分よりも」
間髪入れずに断言した嵐山の手が、突然視界に現れて、私の手からカフェラテの缶を拐っていった。あっ、と抗議しようと思わず顔を上げてしまったことを後悔した。そこには、嫌味なくらいに真剣な表情をした嵐山がいた。
「はすごく優しくて、不器用だって、俺は知ってるよ」
「な、に言ってるの。私は、優しくなんかない」
「…、甘さ控えめのカフェラテが好きなんだよな。いつも飲み物買うときは、これだもんな」
「……っ」
「俺は知ってるよ。このカフェラテ、昔、模擬戦でが勝つと、迅がに買ってあげてたんだって。は今も、迅と会った後はいつもこれを飲んでるって、知ってるよ」
かっと頬に体温が集中するのがわかる。女々しくも、自分の中で無意識に習慣化していた事実を指摘されて、心臓が激しく動揺しているみたいだった。
苦しくて居たたまれなくて下を向けば、再び嵐山の手が視界にやってきて、今度は私の左手を奪った。私よりも一回り大きな嵐山の手が、指の先端から根元まで覆いくるむ。その温かさに、咽が焼けそうだった。
「はなして…っ」
「の方こそ男心がわかってないな。は迅の重荷になりたくないから迅から離れたのかもしれないけど、迅は今だって、を一番に守りたいって思ってるよ」
「そんなの…そんなの、いらないわ。私はあいつに守られる必要も義理もないもの」
「それはの理屈だろ?そんなの、俺にも迅にも関係ないよ」
「なに、それ…嵐山は、それこそ関係ない」
私は最上さんにすら拒絶された人間だ。ただ、まだ人よりも少しは闘えるという理由でボーダーには残っているだけの、中途半端な存在なのだ。そんな私を悠一が守る必要なんてない。私を気にかける意味もない。だから、そんな言葉は私にとって、致命傷にしかなり得ない。
それなのに、嵐山は止めようとはしなかった。指に触れる力が、さっきよりも強くなる。いつもなら、思い出にすがって温めている手が、嵐山のせいで熱くなる。だから私は、この男が苦手なのだ。
「やっぱりは男心をわかってないな」
「…言わないで」
「いや、言うよ。俺だって、迅のためだけに、いつもを探してるわけじゃないから。下心くらい、持ってるさ」
「言わないでよ…っ、馬鹿!」
自分で思った以上に飛び出た怒声に、嵐山は嬉しそうに微笑っていた。
何がそんなに喜ばしいのかと、奥歯を噛み締めながら睨み上げると、私の手を掴んでいない方の嵐山の手が近付いてくる。身体を遠ざけたくとも、握られた手がそれを許してはくれなくて、逃れる術のない私の顔に、嵐山の指がそっと触れた。
すぐに離れていった嵐山の指先に光る滴をみて、私はようやく嵐山が喜んでいる理由を知った。人前で泣いたのは、五年振りだった。
迅に見捨ててほしい妹弟子と嵐山。
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