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思索系少女の追想録 ※過去編。 『―――の前で待っててあげてよ。たぶん、結構へこんでると思うから』 それはあの男にしては珍しく、断言を避けた言い方だった。無機質な扉の前、冷たい壁に背を預けたまま、太刀川は十数分前の出来事を反芻していた。 相も変わらない世間話の合間、不意に目を見開いた迅は直後、少しばかり沈んだ調子で言った。「俺のサイドエフェクトがそう言ってる」が口癖の男が、その時は妙に歯切れ悪かった。淋しそうな、けれど笑みも浮かべつつ迅は、太刀川にあの子の元へ行ってほしい、と背中を押した。 いったい何があるんだか。明確な理由など何も告げられなかったせいで、太刀川は先ほどから靄のようなぼんやりとした苛立ちの中にいる心地だった。これが彼女に関わることでなければ、きっと一分も待たずに帰っている。否、恐らく迅に促されたところで、ランク戦に興じていたことだろう。 手持ち無沙汰にトリガーホルダーを弄ぶこと数分、漸く部屋の中の気配が動いた。程無くして開いた扉から姿を見せた姉弟子は、きょとんと丸くした瞳で太刀川を見つめた。 「よぉ、」 「慶くん…?え、なんで……って、迅さんか」 間髪入れずに言い当てられたが、気にせず太刀川はの右手を掴んだ。この姉弟子は、ちょっと目を離した隙にするりと消えるところがある。太刀川はそれをよく知っていた。何度も何度も煮え湯を呑まされてきたのだ。腕を引いて歩き出した瞬間、閉じる間際の扉のすき間に見えた、上司ふたりと同じように。 の都合など知らぬそぶりで、近場の休憩室まで足を運ぶ。本気で嫌ならトリオン体になってでも逃げただろうから、自分と話す気はあるのだろう。掴んだままだった手をようやく離し、太刀川は長椅子に腰を下ろした。 「お前も座れよ」 「慶くんは唯我独尊だね。まぁ、いつものことだから良いけどさ」 「俺のどこがあの馬鹿なんだよ」 「…唯我くんのことじゃないから。慶くんみたいな人を表した四字熟語だよ」 呆れた溜め息と共に、も太刀川の向かいの椅子へと座る。さして広くない休憩室では、こうして向かい合えばお互いの距離がとても近い。膝二つ分の距離を見下ろしながら、こんな時間もそういえば久しぶりだ、とはぼんやり考えていた。 太刀川とは同じ師を持つ、所謂姉弟弟子の関係にある。もっとも、旧ボーダー時代からトリガーを握っていたと違い、太刀川が忍田に師事したのは大規模侵攻の後だから、弟子歴としてはの方が長い。しかも、入隊当初の太刀川はにも指導を受けていたから、姉弟子兼師匠と言っても間違いではないと太刀川は思っている。今の階級と年齢のせいで周囲はほとんど信じないし、本人も全力で否定するが、太刀川からすればがB級に甘んじていることの方が、信じがたいのだ。 しかし、ボーダーに所属する人間が増えるたび、太刀川のランクが上がるたびに、と二人で逢う時間は目に見えて減っていった。お互いに連絡を頻繁に取り合うタイプでないことも原因なのだろう。昔は毎日のように行っていた模擬戦も、月に一度出来れば良い方だ。けれど、だからといって関係が途絶えた訳でも、仲が悪くなった訳でもない。太刀川からすれば、が何か困っているのなら、率先して助けになるし、むしろ他の誰かにその役目を渡すつもりは今のところない。まあ、学力面での役に立てる部分は皆無なので、助けられる分野は限られてはいるのだが。 さて、今回はいったいどちらだろう。自分がなんとか出来る内容か。それとも他人に渡さなければならないのか。視線を下げたままのを見据えながら、太刀川は唐突に口を開いた。 「で?なんの呼び出しだったんだよ」 「呼び出しじゃないよ。報告に行って、説教されただけ」 「報告?」 「そう、報告」 へこんでいる、と誰かが見た未来とは異なり、太刀川の眼に映るは淡々としていた。端から見れば普段とまったく変わらない様子に、太刀川は逆に違和感を感じていた。 声の調子も、話す言葉も見た目も変わらない。それなのに、目だけが決してこちらを見ようとしないのだ。 「なんの報告だよ」 「“あのこと”を話したことの報告」 「……。」 「……。」 「はぁっ!?」 「慶くん、反応が遅いね」 あまりに調子の変わらない発言に、太刀川は数拍、彼女の言葉の意味を理解できなかった。それくらい、衝撃的な報告だったのだ。 「あのことって、お前のことだよな?なんでそんなことになったんだよ。ていうか、相手は誰だ!?」 「話した内容は私の出身のことで、話した相手はB級の荒船哲次。理由は…」 淀みなく紡がれていた声が、不意に途切れる。じっと様子を眺めていれば、僅かな後に膝の上で手のひらを握りこんだが言った。 「それが、一番効率的だと思ったから」 告げた途端、自分に向かって上げられた視線に太刀川は息を呑んだ。真っ黒な瞳の中心には、いつも以上の鋭さが籠められていた。まるで、すでに決意してしまったかのように。 「…効率的って、どういう意味だ?」 幾分真剣さを増した声で問いながら、太刀川はが名前を呼んだ「荒船哲次」のことを思い出していた。名前は聞いたことがある。確か、攻撃手で弧月をつかっていたやつのはずだ。対戦したことがあるかは覚えていないが、それなりにポイントを取っていたように思う。…もちろん、あくまで太刀川のうっすらとした記憶に頼れば、だが。 そこまで考えて、荒船哲次が「自分が顔と名前を一致させていない程度の相手」だと結論付けた太刀川は、僅かに眉を寄せた。 「そのままの意味…って言っても慶くんは納得しないかな」 「すると思うか?」 「思わない、から言うけど…他の誰にも言わないでよ」 「まぁ、考えとく…じゃない、わかったわかった!言わねーよ!だから睨むなって」 「好きだ、って言われた」 嘆息混じりの一言に、太刀川の時間は完全に停止した。 「応える訳にいかないのは分かってた。でも、荒船が簡単に諦めるような相手でないことも知ってた。だから話したんだよ、私のこと」 の声が妙に遠い。恐らく自分は今、だらしなく口をぽっかり開けて、呆然としているんだろう。頭のどこか、冷静な部分はの言葉を受けとめて分析しようとしている。それが太刀川には分かっていても、指先ひとつ動かすことができなかった。戦闘中、どんな不意打ちを食らったって、こんなことはなかったのに。 自分がいったい何に打ちのめされているのか、太刀川は理解していた。それはが荒船哲次とやらに告白されたことでも、トップシークレットな話をばらしてしまったことでもない。 (「応える訳にはいかない」って。お前、それ…) まるで「理由」がなければ、応えたかったと言わんばかりのの言葉が、太刀川の心臓の奥に突き刺さる。しかも相手は自分よりも、恐らくよりも弱い男だ。笑って、話を聞ける訳がなかった。 「お前…っ!それ、忍田さんたちに言ったのか!?」 「言わないよ、こんな私的な話。ただ、言わざるを得ない状況でした、って報告したよ。まあ、だから怒られたんだけど。慶くんに話したのは、慶くんは納得させないと面倒だからだもん」 「面倒って、お前なぁ…荒船って奴にも、そんな調子で接してんだろ」 「荒船にはちゃんと真剣に対応したよ。面倒とか言うのは慶くん相手だからだし。他の人にはしないから」 「あ、のなぁ…」 彼女はこうやって、無自覚に好意と信頼の爆弾を落とす。だから太刀川は目が離せないのだ。の故郷がどうとか、姉弟子だからとか、そんなことが理由ではない。ただ無条件に寄せられる、にしては珍しい、絶対的な信用を無くしたくも、渡したくもなかった。 たとえそれが、が選んだ相手だったとしても。 「…これは、あれか?邪魔しても手助けしてもダメな奴か?いやでも、弱い奴なんか論外だろ…」 「慶くん、すごい難しい顔してるけど。大丈夫?」 「あ゛〜〜!わっかんねー!!」 頭を思い切り掻いてみても、大声で叫んでみても、最早の不安げな声すら、太刀川の耳には届かなかった。 ただはっきりしていたのは、たった一人の妹分が自分の知らない道を歩もうとしていること。そして、その事実を無自覚に、彼女はもう決めてしまっていること。 自分でさえどうにもできない目の前の現実に、とりあえず迅と風間さんを呼び出そう、と太刀川は渦巻く脳内で決意するのだった。 |