虹色の未来には届けない
が引きこもったから来てくれ。
迅が冬島からその連絡を受けたのは、昼食のカレーうどんを食べ終わった後だった。最近、落ち着いていたのに、やっぱり長くは持たなかったか。周囲の人間の未来にはその気配が見られなかったから、油断していたな。口笛混じりに丼を洗いながら、どうしたものかと考える。
大した対応策も思い付かないまま、放っておくわけにもいかないと支部を出て本部へと向かう。到着したときには八つ時を越えていたが、迅はさして焦るわけでもなく、ぼんち揚げを摘まみながら目的地を目指した。
途中、通路でばったり行き合った当真に様子を尋ねると、やはり今回もいつもと同じく、はた迷惑な引きこもり症状が表れているらしい。
「そろそろ、うちの作戦室、ボーダー本部の心霊スポットになるぜ」
肩を竦めて、どこかふざけたように当真が言う。実際、すでに確定した未来だと言ったらどんな反応をするだろう。中々に興味深い案件だったが、どうやら間もなく狙撃手の訓練があるようで、尋ねる前に別れることとなった。訓練などサボることもある当真にしては珍しい。それだけ、引きこもったがいる部屋に居たくないと言うことか。いや、むしろ彼女のために部屋を出たという方が正しいのだろう。何だかんだと大事にされているようで、迅はほっと息を吐いた。
当真と別れた迅は、真っ直ぐに冬島隊の作戦室へと向かった。勝手知ったる、と言わんばかりの慣れた様子で作戦室に入り、部屋の中でパソコンと向き合っていた冬島に片手を上げる。冬島もひとつ小さく頷くと、心得たと迅を残して部屋を後にした。すれ違い際、迅の耳に「頼んだ」と声が届く。やはり、彼女はしっかりと同じ隊のメンバーに大事にされている。まあ、だからこそは引きこもってしまう訳だが。なかなかに現実は上手くいかないようだ。
迅だけが残された部屋の中は、物音ひとつしないかと思いきや、掠れるような幽かな声音が響いていた。ひっく、ぐすっ、ずずっ。必死になって溜め込まれた泣き声と鼻をすする音。小さすぎてどこから聞こえてくるのかを判断するのは難しそうだ。けれど、どうせ今日もあそこだろう。一片の迷いもなく、迅は作戦室の一番奥、緊急脱出用の寝台を越えた先へと歩みを進める。段々と大きくなる涙の音。部屋の角まで後一歩、というところで足を止め、なにもない空間を見下ろした。
「冬島さん、心配してたぞ」
誰もいないはずの場所で、空気が揺れる。ずずずっ、と大きく鼻をすすった音も聞こえる。どうやら、こちらの言葉を無視してまで隠れるつもりはないようだ。
「当真だってなんだかんだ言って、お前に優しいだろ」
の傷と良心を抉って塩を塗り込んでいる知りながら、迅は甘ったるい台詞を告げた。人のいる気配は、より一層大きくなる。が動揺している証拠だ。
優しさに苦しんで、辛くなって隠れて、隠れている自分に嫌気がさす。なんてバカみたいな悪循環だと呆れる人間もいるけれど、迅はそうは思わない。冬島も、当真もそうだ。
だから仕方がないなと思いつつ、何回だって手を伸ばす。彼女の絶望が、苦しいくらいに解るから。
「大丈夫、ほら。おれは今、ここにいるだろ」
「っ…!」
刹那、なにも存在しなかったはずの空間から突如現れた人影が、勢いよく迅の胸に飛び付く。手離せば奈落に落ちるのではないかと思えるくらい強く、必死にすがり着く指に、迅は口元を緩めた。ああ、まだ大丈夫だ。
安堵の感情に包まれた迅とは裏腹に、つい先ほどまでカメレオンで姿を消していたは、涙の堰など存在しないかのようにボロボロと泣きながら叫ぶ。
「なんで…っ、なんで迅さんは平気なんですか…!こんな、こんな未来ばっかり…もう、いやです…ッ」
は迅と似た、未来視のサイドエフェクトを持っている。ただ、迅とは異なりは決して幸せな未来を視ることはない。彼女が視るのは最悪の未来だけ。人や物、場所、すべてのものの絶望の先だけを読み取ってしまうのだ。
大規模侵攻の直前には、命ある人間がひとりもいない三門市の未来を視て狂いかけたの哀しみは、本当の意味では迅にも分からない。迅が視る未来は目の前にいる人間の様々な可能性だし、それは悪いものだけではないから希望もある。
しかし、が視るのは最も悪い先だけだ。家族や友人、大切な人に場所。そのすべてが、些細な瞬間に消え去ってしまう。それはまだ年若い彼女にとって、どれほどの絶望だろう。
「よしよし。で、今日は何が見えたんだ?」
「……警戒区域の、外。たくさんトリオン兵が出て…たくさんたくさん、人が、死んじゃう…」
「警戒区域外か…まぁ、大丈夫だって、」
「でも…っ」
「おれのサイドエフェクトは、まだ誰の不幸な未来も告げてないよ」
こちらを見上げる大きな瞳は、未だに水膜に覆われて揺れているが、ようやく自分の顔を見てくれたことに、迅は息をつく。彼女だってわかっているのだ。自分の視る未来は、回避するためにあるのだと。だから誰かを視界に入れられるようになるのならば、今日はもう大丈夫。柔らかな髪ごと迅が頭を撫でれば、ほんの少し、強張った頬が弛んだ気がした。
「が視た未来はおれが変えるから、安心していいよ。なんたっておれは、」
「実力派…エリート、だから?」
「ああ。だから、心配なんてひとつもないだろ?」
ニカリと大袈裟に迅が笑ってやれば、真っ赤な鼻をすすりながら、も返すように不器用に笑う。
絶対なんてない、回避できる未来ばかりじゃない、悲しい結末に辿り着くことだってある。迅もも知っている。けれど、同じ幅だけ、可能性があることだって真実だから。いつだって迷って、立ち止まって引きこもって、また歩き出すの手を、許される限り引き続けたいと、迅は願うのだ。
気が付けば、しゃくりあげて小刻みに震えていたの身体は、大分落ち着きを取り戻していた。最後まで残った目尻の涙を指で拭ってやれば、頑なだった指先の力が弱くなる。ぐしゃぐしゃになった顔を覗きこんで、「ひっどいなー」とからかうと、服から離れた手で、思い切り右ストレートを受けるはめになった。
病まない迅に憧れる。
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