ユーロストミー


「最上さんが羨ましいな」

そう言って笑ったの表情は、真夜中の暗闇の中でも嫌になるくらい光っていたから、おれは目を逸らすことができなかった。

「…なんで、そんなこと言うんだ?」

引き攣り掠れた喉からようやく絞り出せたのは、そんなありきたりな言葉だけで。普段は人の一手先、二手先を捉えて動けているはずなのにと、こんな時に限って役に立たない自分のサイドエフェクトが憎らしかった。
何時だって、そうだ。一番大事な時にだけ、こいつはおれの思い通りにいかない。足元に転がったトリオン兵の残骸と、片腕を失くしたトリオン体のを視線で辿って、砕けてしまえとばかりに奥歯を噛み締める。
そんなありふれた殺戮の中でも、は静かに微笑ってみせた。

「だって、迅は絶対に最上さんを忘れないでしょう?」
「おれはのことだって忘れないよ」
「それは、今は断言できないでしょ」
「そんなこと、」
「そんなことあるよ」

は残った左手で、失われた右腕のつなぎ目にそっと触れた。まるでそこにあった何かが、とても大事なものであったように。決して戻らない何かを辿るように、右腕があったはずの空を指でなぞる。
トリオン体の腕なんて、実体には何の影響もなく、元通りになることはだって知っているはずだ。そして、おれにだってそれがわかっているのに、言いようもない不安だけが胸を締め上げる。大丈夫、大丈夫だ。の未来は、大丈夫なんだと、必死に言い聞かせてみても、の言葉が、瞳が、それを否定する。

「迅はいつか私を忘れる。例えば、今日みたいに迅が間に合わなかったら、私はきっと死んじゃってたでしょ?そうしたら、迅はいつか私を忘れる。時間とともに、少しずつ。きっと忘れていくよ」
「なんで…っ」
「いいの、迅。否定しないで。だって、忘れることは仕方がないことだから。忘れられちゃうのは、当たり前だってわかってる。ただ、私がそれを、悲しいと思ってしまうだけだから」

わがままでごめんね。悪びれた様子なんて少しも見せず、は呟く。
忘れられることを悲しいと、寂しいと嘆くことは悪いことだろうか。の感情は誰だって抱く当たり前なもので、だからみんな、そうならないように生き続けようとしていて、そうやっておれたちは思い出を重ねている。だから、それが続く限りおれはを忘れたりなんかしない。
そう、頭の中で否定を浮かべた直後、愕然とした。
ああ、そうか。だからは、

「…は、黒トリガーになりたいのか?」

ふわり、と。花咲くような微笑みが、夜の静寂に開く。冷たくて、残酷で、救いを一欠も赦さない厳格な態度で、は首を横に降った。

「迅は知ってるでしょ。私のトリオン量じゃ、黒トリガーにはなれないって」
「なら」
「だから、私は最上さんが羨ましいの。私は死んでも黒トリガーにはなれない。死んだら、何も残せない。だから、忘れられてしまうことが、悲しいの」

寂しいの、とこぼして一歩、二歩とはおれに背を向けて進む。遠ざかる小さな姿に、駆け寄って抱き締めて大丈夫だからと、の未来はあるのだと叫びたい衝動に心は駆られるのに、なぜか足が動かなかった。足の裏が縫い付けられたみたいだ。いったい何に?答えはおれ以外にあり得ないのに、意味のない自問自答を繰り返して、せめてもの抵抗にと両手をの方へと必死に伸ばした。

「なんで…そんなこと、言うんだ…!」

もう一度、喉の奥から絞り出したありきたりな同じ言葉が、さっきよりも切実だったからか、おれから数歩離れてしまった場所で振り向いたは、やっぱり優しく笑う。

「いつか、私がいなくなったら、忘れちゃってもいいよ」
「おれは…っ」
「忘れちゃってもいいから、ちょっとだけ。一分だけでいいから、迅が私のために泣いてくれたら、嬉しいなぁ」

何も残せないから、残らなければ忘れられても良いと、焼き付くくらいに綺麗な顔で笑うから。ようやく地面を蹴り飛ばした足で、おれはすがりつくようにに抱き付いた。
頼むから、消えないで、と。
おれの涙を望む彼女に、ただひたすら必死になって、泣きつくしかできなかった。




病まない迅に憧れる。
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