君とふたりぼっちのゆめ


影浦雅人にとって、人の多い空間は好ましくないもののひとつだった。特に、中途半端に自分のことを認識している人間がいる場所は最悪だ。大してこちらを知りもしないくせに、憶測で塗り固められた数多の視線ばかりが向いてくる。十数年の人生で多少の耐性は付いているものの、それで苛立ちや嫌悪感がまったくなくなるわけでもない。あぁ、本当に嫌になる。ボーダー本部、個人ランク戦を行うためのロビーに足を踏み入れ、改めて影浦は思った。

「あれ?ちゃん、まだ来てないみたいだね」

ロビー内を見渡す気にもなれず、舌打ちをして入り口近くの壁に背を預ける。そんな影浦を気にも止めず、ぐるりとロビー内に視線を向けた北添が首を傾げた。
わざわざこんな場所に足を運んだのは、気の置けない同輩達と模擬戦を行うためだ。先に着いている、と連絡があった連中はすでに対戦を始めているようで、その姿をモニター越しに確認することができた。しかし、その中に北添が呼んだ名の少女は見当たらない。あの羽のように軽々と宙を舞い、霰が如くアステロイドを振り撒く姿は何処にも存在しなかった。

「約束の時間は…もう過ぎてるよね。ちゃんが遅れるなんて珍しいね。カゲ、何か聞いてる?」

振り返った北添が心底不思議そうな眼で尋ねる。数秒の空白の後、影浦は徐に寄り掛かっていた背を起こし、踵を返した。一言、先始めとけ、とだけ残した背を、北添は微笑みと共に見送った。



歩みを進める度に、周囲からは人の気配が消えていく。影浦はそんな道を選んで歩いていた。
どれだけ人が溢れた場所にも、不思議と周囲からは隔絶した空間がある。街中の裏路地や、学校の非常階段、ボーダー本部の開発室周辺の廊下。そんな真昼の陽光から外れた場所を探すのが、影浦は得意だった。正確に言えば、幼いころからそんな場所ばかりを探し歩いていたせいか、自然と嗅覚が働くようになっていた。二又に分かれた道が目の前に表れた時、どちらにより人の気配がするか、段々と察せられるようになったのだ。
そして、こうした特技を持つのは影浦だけではないらしい。人のいない方へ、方へと足を向けた影浦の前に、彼女は案の定姿を現した。

「おぃ…って、寝てんのか?」

影浦が見つけたのは、訓練生で溢れたロビーから大部離れた通路のベンチに座りこんだの姿だった。何時もはひとつに纏められた髪を背中に下ろした頭は、項垂れるように下を向いている。そのまま視線を下げれば、膝の上に置かれた、開かれたまま本も目に飛び込んできた。
自分の足音にも声にも、ピクリともしない様子に影浦は長い息を吐く。本人に自覚はないだろうが、最近は影浦の目から見ても随分と疲れているように見えた。日課の勉強に加えて期末考査対策に、生徒会業務の後輩への引き継ぎ、更には最近知り合ったらしい後輩射手との模擬戦にも大分時間を割いていた。影浦からすれば、やりすぎだと思えることも、にとって「やりたいこと」に分類されてしまえば、手を抜くなんて絶対にしない。そんな性格の結果が、恐らく眼前の光景なのだろう。
先ほどよりも足音を落として、影浦はに近づく。そして、静かに隣のスペースへ腰を下ろした。

「…起きやしねぇな」

影浦との距離は、もう拳ひとつ分程度しかない。これだけ近くに人の気配が迫っても、の寝息が乱れることはなかった。疲れのせいか、それとも自分だからなのか。ふと脳裏に浮かんだ下らない願望を消し去るように、影浦は無造作に頭を掻いた。

「ったくよ……襲われても、知らねぇぞ」

隣に並んでみても、俯く横顔は肩よりも長い髪に隠れて見えない。隙間から覗く細い輪郭をしばらく眺めて、影浦は再び壁に背を預けて目蓋を下ろした。
光を無くした五感は先ほどよりもはっきりと、彼女の穏やかな吐息を捉えていた。


* * *


にとって、人の少ない場所を見つけることは呼吸と同じようなものだった。幼少期の多くの時間を共に過ごした少年は、人で溢れた空間をあまり好まなかったから、気が付けばは幼馴染を探して人の少ない場所へと向かうようになっていた。幼馴染が好みそうな場所を探し歩けば、自然と人が少なくなると気が付いたのはいつの頃だったか。今となっては思い出せないくらい自然に、は人混みから離れる術を知っていた。

「ん…」

だから今日も同じように探した人気のないベンチで、待ち合わせの時間まで参考書でも読んでいようと表紙を開いたはずだった。けれど、気が付けばいつの間にか自分は夢の世界へと旅に出ていたらしい。重たげに瞼を開きながら、の口からは小さな息が漏れ出ていた。

「あれ…え?」

開いたままの参考書も、周囲の静寂も何一つ眠りに落ちる前と変わらない。けれど、見ないふりをするには温かすぎる温度が、すぐ傍らで静かな呼吸を繰り返している。その事実に気がついた瞬間、は先ほど吐き出したばかりの息を思い切り飲み込んでしまった。

「かげ…うら、くん?」

囁くほどに小さな声で名前を呼んでも返される反応はないけれど、俯く横顔だけで十分だった。
普段から少し前のめりな背中を更に丸めて、眠る影浦の顔をそっと覗きこむ。その表情はどこか幼く優しくて、自然と自分の口元が緩むのが分かった。

「あ…待ち合わせ、すっぽかしちゃったんだ」

なぜ彼がここにいるのだろう、と浮かんだ疑問は、携帯端末に表示された時間を見てすぐに晴れた。本当ならば、大急ぎで彼を起こし、みんなのところへ行くべきなのだろう。なんと言っても、ドタキャンも良いところなのだから。
みんなに謝らなければいけない。それが、わかっているはずなのに、はその場から立ち上がるができなかった。端末から再び影浦の方へと視線を上げて、じっと横顔を眺める。隙間なく身体がくっついている訳でも、手を繋いでいる訳でもないのに、彼が隣に並んでいるだけでこんなにも温かく感じるのは何故だろう。答えを返してはくれない寝顔を見つめたまま、は少しだけベンチから腰を上げて、僅かに空いたままだった二人の隙間を埋めるように座り直す。押し付けるほどではないけれど、ささややかに触れた肩越しに先ほどよりもたくさんの温もりを感じた気がして、は再び目蓋を閉じた。

「もう少しだけ…いいよね」

光を遮った暗闇の中でも、すぐ傍で聞こえる彼の呼吸に耳を傾けているだけで、不思議と何もかもから救われる気がした。
きっと、私はもう影浦くんがいないと駄目なんだろうなぁ。
眠りに落ちる間際のぼんやりとした思考で、は思う。そんな思考を覆い隠すように目前に広がったまどろみは、ただただ暖かくを包み込んでいった。



菊地原幼馴染が、もしも影浦と付き合っていたら。
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