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オレンジのとくべつ 荒船哲次という男はとても損ばかりしている人間だ。少なくともはそう認識している。 生来の性格はとても真面目で勉強熱心なのに、親しくない人間から見ると、少しばかり粗雑な言葉遣いや帽子の陰から覗く鋭い目つきの所為で、浅慮な印象を受けるらしい。進学校に通ってそれなりの成績をキープしていることや、完璧万能手としてのノウハウをマニュアル化しようとしている姿を聞かせても、なかなか理解してもらえない。人は見た目が九割というけれど、荒船の魅力はそんな薄っぺたい理由で隠れてしまうようなものではないのに、多くの人にはどうしても見え難いものらしい。 荒船の良さが隠れてしまう理由のひとつには、きっと荒船自身の言葉の足りなさもあるんだろう、とは思っている。荒船はあまり、自分を守る言葉を使わない。どれだけ自分に不利な状況でも、仮に荒船が理不尽に責められていたとしても、きっと荒船は言い訳なんてしないだろう。それをがありありと感じたのは、夏が間近に迫った雨の季節だった。それまで攻撃手で着々とポイントを稼いでいた荒船は、突然狙撃手に転向した。その理由を根拠なく揶揄する人間は少なくなかったけれど、荒船はひとつも言い訳なんてしなかった。ようやく彼が真実を語ったのは、荒船の友人が彼の行動を誤解して傷付いていると知ったからだ。それも、尋ねてきた相手にしか話さないものだから、未だに荒船のことを「攻撃手から逃げた」なんて口さがなく言う者もいる。荒船の言葉をきっかけに、確かに友人は晴れやかな顔を取り戻したけれど、には何だか納得できなかった。自分もあまり多くを話すタイプではないけれど、荒船ほどではない。荒船はもっと、本音を語るべきだ。 そして今、まさには切に感じていた。荒船は言葉が足りない、と。 「名前、呼んでいいか」 夜に片足を踏み入れた夕刻、遠く民家の先では深い藍色がオレンジを呑み込もうとしていた。合同の防衛任務を終えた荒船とは、加賀美や穂刈に追い立てられるように帰路についた。普段の荒船からは想像できないくらいのゆっくりとした速度で歩く最中、荒船が落とすように言った。 「うん」 一瞬、いったい何に許諾を求められているのかわからなかった。けれど、荒船の一言を理解してみれば、断る理由は何処にもない。僅かな間をおいて、ははっきりと頷いた。 「」 「うん」 「…」 「どうしたの?」 「…お前も、呼べよ」 名前、と荒船が呟く。歩きながらそっと左隣に視線を向ければ、ほんのりと赤く染まった耳がよく見えた。 「……哲次くん?」 たった三文字を口にしただけで、身体の真ん中の辺りが急激に熱くなるのをは感じた。普段は大して役に立たない副作用のせいで顔色にも心拍にも表れてはいないだろうけれど、自分は何か特別なことを仕出かしたような、そんな感情が駆け巡る。 「…哲次くん」 「何だよ」 「うん…なんだか、照れますね」 未だに内側で渦巻く制御しきれない羞恥に、荒船の方を見ることすら出来ず、は足元に視線を落とした。舗装されたコンクリートを辿って、ゆっくりと呼吸を繰り返す。ただ、名前を呼んだだけ。「て」と「つ」と「じ」を並べただけ。荒船に気が付かれないように必死に落ち着きを取り戻そうとするが、その前にまたしても荒船から爆弾が落とされた。 「なあ、抱きしめてもいいか」 少なくとも、の足を止めるくらいの威力を持った一言に息が詰まる。動かなくなった両足と同時に勢い余って顔を上げると、同じく立ち止った荒船がの方を向いていた。 消える間際の夕焼けを背にした荒船の表情には影が差し、はっきりと判別することは適わない。けれど、これは冗談ではない。それが、には不思議と伝わっていた。 「……うん」 「いいのか?」 「うん。でも…どうしてか、知りたい」 荒船と友人以上の関係になって数週間、一度もこんな風に宣言されたことはなかった。お互いに奥手なことは自覚していたし、も急激な変化を望んでいた訳ではなかったから、それを嫌だとは思わなかった。 けれど、もちろん多少なりとも荒船と近づきたいと願っていたことも嘘ではない。だから、荒船の言葉は素直に嬉しかったし、知りたいと思った。これまで何も求めなかった彼が、なぜ今性急に、変化を求めているのかを。 予期しない問いかけだったのか、荒船は一瞬身体を強張らせてから、ガシガシと頭をかきだした。首を傾げつつ、は荒船の言葉を待つ。不意に、身体に鋭い視線が突き刺さるような気がしたと思ったら、一気に腕を引かれていた。気が付いた時には、の身体はすっぽりと荒船の腕の中に納まっていた。 「あ、荒船…くん?」 「名前、戻ってる」 「あ…ごめんなさい」 「…慣れろよ、早く」 「頑張ってみるけど…ずいぶん急だね」 どくどくと、の耳を少し速度を速めた荒船の心音が叩く。きっと自分の心臓は、可愛くもなく一定のリズムを刻んでいるんだろう。彼と同じように今、死んでしまいそうなくらいに緊張している事実を伝えたくて、でも恥ずかしくて隠したくて。そんなごちゃ混ぜな感情を隠すように、は必死に言葉を紡ぐ。まるで、そんなの心情を見抜いて、大丈夫だとでも言うように、背中に回った腕の力が強さを増した。 「あーうっせぇ。俺だって、余裕ねぇんだよ」 「そう、なの?」 「当たり前だろ。けどよ、ただ一緒に帰って、名前呼んでってだけじゃ…変わんねぇだろ」 「…何が変わらないの?」 「他の連中と、だよ」 一拍、二拍と心臓が脈打った後で、自分の顔が急激に熱くなるのをは確かに感じた。なに、これ。こんな感覚、知らない。覚えたことのない身体の感覚に戸惑いつつ、けれどそれが嫌でもない。先ほどから、自分の中には矛盾ばかりが溢れかえっているようで、堪らずは支えを求めて荒船の服を掴んだ。 「…一個くらい、俺しか出来ないことが欲しいんだよ」 尋ねて、返ってきた荒船の本音は、の予想の遥か彼方のものだった。単なる気まぐれとか、隊員に背中を押されたからとか、そんな理由を期待していたのだ。 それなのに、荒船は言う。他の誰かと違うことがしたい、と。それはまるで「特別」が欲しいと乞われているように聞こえ、軋まないはずの胸が痛む。ただそれでもはっきりと、自分が荒船の言葉を「嬉しい」と感じていることだけは解かった。 「なあ」 速度をまた増した心臓の音と重なって、荒船の声が響く。 「キス、してもいいか」 答えなんて聞かれるまでもないと、は小さく頷いた。 |