幸福の王女につき


ことの発端は、自分が告げた言葉だったように、影浦は思う。劇的な切っ掛けがあったとか、ドラマチックな何かが起こったわけでもない。ただ、に尋ねたたったの一言。自分の右手が確かに感じとる温もりは、間違いなくそれによって産み出された。
手を繋げたまま、ただ並んで座っているだけの時間が、どのくらい過ぎたのだろう。不思議と居心地の悪くない時はただ静かに流れていて、だんだんと高くなる手のひらの温度だけが、時間の経過を影浦に教えた。

「なんか、嬉しいな」

二人分の体温の境目が見当たらなくなった頃、が不意に呟いた。隣に並んでいなければ聞き逃してしまうくらいに小さな声は、言葉の意味と同じ感情で満ち溢れていて、影浦は顔ごとから視線を反らす。
人より耳の良い幼馴染みの傍に長く居たせいか、は時折、囁くような声で本音を語る。きっと、それがの癖であることは、自身も知らないだろう。だからの本当の心を聞き漏らさないよう、密かに気を張っていることは、影浦本人しか知らない。正確には、誰にも知られたくないのだ。それこそ、本人にも。

「何が、って聞いてほしいのかよ」
「うん。丁度聞いてほしかったところ」
「じゃあ、聞かね」
「ひどいなぁ、影浦くん。ちょっとくらい、聞いてみてよ」

交わす言葉に毒は欠片もなくて、あるのは、くすくすと柔らかく響く笑い声だけだった。が笑うのと同時に、右手が木霊するように震える。彼女の手が、自分と繋がっている確かな証だ。
背けていた首を回して、視界の端にふたつの手のひらを映す。骨ばった固い指は自分のもの。そして、ふにゃふにゃとした白くて柔らかな指が、のもの。
互いの違いを改めて認識してしまったことに、影浦は後悔した。自分の手のひらですっぽりと包まれてしまう小さな手を眺め、声を呑み込む。

「私は、嬉しいよ」

力を込めれば潰れてしまいそうな、自分とあまりにも違う存在に恐怖すら抱いたことを、彼女は気づいたのだろうか。少しだけ、右手にかかる力が強くなると同時にが言った。

「影浦くんが、欲しいものないのか、って聞いてくれて」

ことの発端は、影浦がに尋ねた一言だった。

「誕生日でも何かの記念日でもないのに、影浦くんが私のことを考えてくれたことが、すごく嬉しい」

そして、その問いかけには答えた。それなら手を握ってほしい、と。
あまりに無欲な彼女の返答に、影浦は聞き間違いかと疑った。しかし、もう一度確認してみてもは同じ答えを返す。ただ、手を握ってくれるだけで良いのだと。だから、ふたりだけの作戦室で柄にもなく手のひらを重ねて、肩を並べているのだ。

「欲しいものがコレとか、ありえねーだろ」
「そんなことないよ。影浦くんは私がしてほしかったこと、叶えてくれてる」
「…安上がりな奴だな」

別に影浦とて、彼女に何かを貢ぎたくて尋ねた訳ではない。ただ、ふと思ってしまったのだ。に何かをしてやりたい、と。
数多の選択肢の中から、何故か自分なんかを選んでしまったに、何かを返してやりたかった。自分にしかできない何かをしてやりたかっただけだったのだ。くだらない気紛れと、嫉妬心。それが口をついただけだった。
にもかかわらず、はまるで代わりのない愛おしいものを見るように、繋がっただけの手を見つめて、囁く。

「安上がりなんかじゃないよ」
「はぁ?」
「だって私、今影浦くんを独占してる。これって、すごく贅沢なことでしょ?」

ね、と同意を求める短い声と同時に肌に触れた針は、随分と丸くて甘ったるい。自分に向けられるには勿体ないこそばゆい感情に、逃避したくなる衝動を押さえ込み、影浦は視線を少しだけ上げた。

「…訂正してやる」
「えっ?」
「お前は安上がりじゃねぇ。ただの物好きだな」
「うーん…そんなこと、ないんだけどなぁ」
「あるから言ってんだろ。まぁ、テメーみたいな変な奴、付き合えんのは俺くらいだろうからな。仕方ねーから、たまにはこうしてやるよ」

瞬間、僅かに眼を丸くして、そっと眦を綻ばせた姿を、自分だけが産み出せるというのなら。
欲張りだと主張する無欲な彼女に、もう要らないと言わせてやると皮肉じみた決意を抱いて、影浦はに絡めた指に力を籠めた。



菊地原幼馴染が、もしも影浦と付き合いはじめたら。
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