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きみのなかのぼくにさよなら は困惑していた。その要因である、自分の右手首を掴んだ幼馴染の手を眺めてみても、解決策は見当たらない。しろくん、と何度声をかけても振り返ってくれない背中に、すでには菊地原を止めることを諦めていた。その代わり、力任せに腕を引かれて歩きながら、原因は一体何だったんだろう、と考えていた。 ラウンジに突然やってきた菊地原が、無表情のまま何も言わずにの手を掴んだのは、丁度荒船と今日の四限の小テストのことを話していた時だった。問五が難しかったね、だとか、あそこの答えはこうだろ、とか、高校生が空き時間に話す内容としては、極自然な会話だ。近くに当真でもいれば、色気のねぇ会話だな、と評価されるくらいだろう。 荒船と交わしたやりとりを思い返してみても、なにひとつ菊地原の機嫌を損ねたものは見当たらない。けれど、口の達者な幼馴染みがこうも黙っているなんて、機嫌が悪い以外の理由が思い付かないのも事実で。引かれ続ける腕を享受したまま、の頭にはやはり困惑の二文字しか浮かばなかった。 ラウンジを飛び出して廊下を歩き続け、いったいどこまで進んでいるんだろう。恐らく、A級部隊の作戦室が並ぶエリアへと向かっているのだろうが、同じようで見慣れない周囲の景色には視線を巡らせた。 C級隊員が良く集まるエリアを抜けてしまえば、ボーダーの施設内はとても静かだ。すれ違う人も疎らで、今だって菊地原との足音と息遣いしか聴こえない。 強化内蔵機能という、有り難くもない副作用を持つの呼吸が乱れることはそうそうないけれど、駆け足のような速度で歩き続けているにも関わらず、菊地原から聞こえる呼吸も荒くなる気配はなかった。きっと、すでにトリオン体に換装しているのだろう。幼い頃はの方が年上で、しかも副作用持ちだったから、いつも一緒に遊ぶたびに、先に疲れて座り込んでしまう菊地原に「ズルい」と言われたものだ。そんな幼馴染みの機嫌を宥めるのが、の日課だった時期もあった。 けれど今は、体力も歩く速度も歩幅も、どれもが菊地原の方が上になってしまった。男女の差はあっても、あの頃の二歳の差はとても大きくて、手を引いて前を歩くのは何時だっての役目だったのに。 「しろくん、大きくなったね」 思い浮かべると同時に唇を震わせた囁きに、ピタリと菊地原の足が止まる。あまりに突然の動きに対応しきれず、たたらを踏んだ足は勢いを殺しきれなくて、は菊地原の背中に鼻から飛び込んだ。 大した痛みはなかった。けれど、視界に広がる見馴れたはずの背が、自分の顔の高さに存在する事実に言葉を飲み込む。いつのまに、あの小さかったはず少年は成長してしまったんだろう。 「…なにそれ、嫌味?」 記憶の中の幼馴染の姿を思い浮かべていると、同じはずの背中から記憶の中よりも低くなった声がの耳に届いた。 「違うよ。ただ、ふと思っただけだよ」 「ほぼ毎日逢ってるのに、今さら思うことじゃないでしょ。の中のぼくは、よっぽど成長してなかったってこと?」 「ほぼ毎日しろくんに逢ってるから、しろくんがこんなに大きくなってたんだって、改めて実感したことなかったの。でも、当たり前のことだよね。しろくんだってもう高校生だし」 背の高さが抜かれてしまったのは、いったい何時ごろだったっけ。 思い出を掘り起こすように小さくが零すと、まるでそれに応えるかのように菊地原がこちらを向いた。 ようやく向き合った幼馴染の瞳には、普段の装った無気力さのほかに、僅かばかりの動揺が浮かんでいるように見える。怒っているわけではないようだ。けれど、今にも崩れ落ちてしまいそうな脆さに、は気が付くと手を伸ばしていた。 「あのね。しろくんが機嫌悪い理由、教えてほしい。それが分からないと、私には何もできないよ」 「……別に、ぼくの機嫌なんてどうでもいいんでしょ」 「そんなふうに思ってたら、ここに居ないよ。しろくんなら、分かってるでしょ?」 「……」 「何か悪いことをしちゃったなら、謝りたい。悪いところがあったなら直したい。だから、理由を教えてほしいの」 伸ばした手で頬に触れても、菊地原は逃げなかった。揺れながらも自分を見つめる視線を、は真正面から受け止める。この幼馴染相手には、嘘も誤魔化しも逆効果にしかならないことは小さいころから学んできているのだ。 そして、それはもちろん菊地原にとっても同じことが言えるわけで。こんな時に、が嘘を吐くことも、誤魔化そうと適当な話をすることも選ばないのは重々理解していた。柔軟そうにみえて頑固で真っ直ぐすぎる彼女は、絶対に逃げ道なんて選択しない。 だからこそ、嫌になるのだ。彼女はなにひとつ、自分の想いなんて理解してなんかいないのだ、と。 「…はあ。もういいよ。もう、わかったから」 「よくない。私には全然分からないよ」 「別にもう、機嫌悪くないし。そんなことより、次の休みいつ?」 突然切り替わった話題に、の頭は瞬時に着いていけなかった。必死で記憶を漁りなおして、防衛任務のスケジュールを思い浮かべる。その間も、菊地原の眼が自分から逸らされることは、もうなかった。 「えっと…来週の土曜日は、何もなかったと思う」 「じゃあその日、空けといて。映画、観に行くよ」 「え…?でもしろくん、映画とか人の集まるところ、好きじゃないでしょ?」 「いいから行くの!ちゃんと空けといてよね!」 「あ、うん。わかった」 恐らく自分は、今とんでもなく間の抜けた顔をしているんじゃないだろうか。あまりに一瞬で変わってしまった菊地原の機嫌に、は首を縦に振ることしかできなかった。 けれど、了承の言葉を返したことで幼馴染の機嫌はいくらか回復したようで、内心ほっと息を吐く。そして、頬に触れたままだった手のひらを離して、もう一度しっかりと菊地原の顔を見上げた。 「しろくんの気が向いたら、今日の理由教えてね。私、ちゃんと知りたい。しろくんが嫌だ、って思ったこと」 「……そういうところ、ほんとむかつくよね」 ぷい、と今度はそっぽを向かれてしまったけれど、は知っている。この仕草はただの照れ隠しだということを。理由は分からなかったけれど、今日はもう大丈夫そうだ。 「じゃあ、ラウンジに戻ろっか。荒船くんに謝らないと」 「えー…別によくない?」 「ダメです」 口を尖らせたまま視線を逸らす菊地原の手を取って、今度はが先を歩き出す。 繋いだ手のひらは、もう随分と大きくなってしまった。何でも分かる気がしていた幼馴染の悩みも、今では分からないことが増えてきてしまった。そしてこれからも、どんどん知らないことが増えていくんだろう。 けれど、今はもう少しだけ。 昔のように幼馴染の手を引きながら、はそれだけを小さく願っていた。 |