寂しがりのレッド・クイーン


ふとした時間の隙間、普段は若いボーダー隊員たちの賑やかな声で溢れたラウンジに、緩やかな静寂が流れていた。
微かに空気を響かせるのは、柱に隠れるように置かれたソファーに並んで座る二人の呼吸と、時折動くシャープペンシルの音だけ。現実の中で置いてきぼりにされたようなこの時間が、菊地原は嫌いではなかった。
何をするでもなく、ただぼんやりとした視線は意味もなく宙を辿る。その間も感じるのは、僅かに触れた腕と腕から伝わる彼女の体温と、狂うことを知らない一定の心拍音。その心地好さに、くぁ、と小さく息が漏れる。耳を澄まさなくとも聞こえる規則的な鼓動は、菊地原にとっては物心ついたときから隣にあることが当たり前なものだ。

「…しろくん、眠そう」
「ん…別に」
「寝ててもいいよ。防衛任務の時間になったら、起こすから」
「…別に眠いなんて言ってないし。の勘違いじゃないの?」
「安定の意地っ張りだなあ」

くすくすと楽しげに綻ぶ口元を横目に、菊地原は唇をとがらせてみせる。けれど、隣に座るからすれば、そんな菊地原の態度こそ見慣れてしまったもので、相変わらず私の幼馴染は可愛いなあと菊地原の頭をポンポンと撫でた。

菊地原にとっては、親が友人同士で家も近所というフィクションのような関係で出来上がった、生まれたころからの幼馴染という存在だった。菊地原が生まれたときには、すでに二歳のが傍にいて、保育園、小学校、中学校とずっと隣には彼女がいた。
別にの後を追いかけた訳ではないが、生来のトリオン量ゆえにボーダーに入隊した彼女から一年遅れて菊地原がボーダー入隊を果たしたことも、強ち偶然ではないのかもしれないと思えるくらいに、菊地原にとっては不可欠な存在だった。
学年は違えど関係が途絶えることはなく、それは今なお続いている。の隣は菊地原にとって他に代えがたい空間で、それは別に彼女の持つ地味なサイドエフェクトの効果で、常に一定のリズムを刻む心臓の音が心地よいからだけではない。ただ、ただ隣に座っている。それだけで満たされる何かが彼女の傍にはあるのだと、菊地原は感じていた。

「ねえ」
「んー?どうしたの、しろくん」
「勉強、まだ終わらないの?」
「受験生だからね。区切りがつくまで終わりはないのです」
「別に、バカじゃないじゃん。そんなに勉強しなくても大学行けるんでしょ」
「でも、油断はできないからね。ボーダー隊員を理由に甘えられないし」
「ふーん」
「しろくん、全然興味なさそうだね。確かに当真くんには真面目すぎるって言われるけど、荒船くんとかには感心されるんだよ」

菊地原の言葉に応えつつも、問題を解くペンの動くが止まることはなく、当真に同意したいわけではないが、やっぱり真面目すぎると溜め息がこぼれた。
別に構って欲しいわけじゃない。こっちを見てほしい訳でもない。けれど、なんとなく嫌なのだ。自分が隣にいるのに、彼女の視線がノートと問題集ばかりに取られてしまうことが。せっかく自分は生身で、スマホの電源まで切っているのに。
明確な理由のない感情に、得も言えぬモヤモヤとした思いが浮かぶ。こんな気分のままでいるくらいなら、もういっそ寝てしまおうか。半ば投げやりに瞼を閉じようとした直後、菊地原の耳に遠くから近づいてくるひとつの足音が届いた。

「あ…風間さん」
に…菊地原、ここにいたのか」

聞こえきた足音の正体は、菊地原が所属する隊の隊長である風間だった。風間の姿に気づいたが、ソファーから勢いよく立ち上がって頭を下げる。その様子を座ったまま見上げる菊地原の目には、はっきりと見えてしまった。変わらない心音のまま、確かに色づいた頬と耳。ドクンと、自分の心臓が弾かれたように響いた気がした。

「こんにちは、風間さん。いつもしろくんがお世話になってます」
は相変わらず菊地原の保護者のようだな」
「やめてくださいよ、風間さん。ぼく、に面倒みてもらってることなんてないですから。それより、何か用ですか?」

思わず口から出てきたつっけんどんな物言いに、の視線が菊地原の方へと向けられる。視界の端に映る驚いた彼女の様子に、なぜか満たされた気分を感じながら、菊地原は風間に話の続きを促す。

「ああ。お前がすでに本部に来ていると聞いたが、無線が繋がらなかったからな、探していた。今から防衛任務に入れるか?」
「今からですか?…予定の時間、夜じゃありませんでしたっけ?」
「…次の時間帯はもともと太刀川隊の予定だったんだが、阿呆な隊長がどうしても大学に行かなくてはならなくなったそうだ」

盛大に吐かれた嘆息には、風間の呆れと某隊長の境遇が余すことなく込められいる。彼の成績に関する逸話は数限りなく、正直憐みすら抱くことができない。しかし、だからといって防衛任務を放置することができるわけでもなく、仕方がないと言わんばかりに肩をすくめて承諾の意を口にした。

「すまないな。では、四十分後に集合してくれ」
「了解しました」
「ああ。も勉強の邪魔をして悪かったな」
「いえ、大丈夫です。防衛任務、お疲れ様です」

再び、風間に向けて思い切り頭を下げたは、片手を挙げて去って行った風間の背を見えなくなるまで見つめていた。ようやく風間の姿がラウンジを抜けたところで、大きな息と共にソファーに崩れ落ちた身体。傍からみれば、心拍が早鐘のようになっていても可笑しくないくらいの動揺具合だ。イライラする。不機嫌さを隠さないまま、菊地原が言う。

「風間さんに惚れるなんて、身の程知らずもいいところだね」
「惚れるって…ちがうよ、しろくん。ただ、憧れてるだけ」

憧れ、と言葉にするの頬は、今なお薄っすらと赤みを帯びていて、少なくとも自分と相対している時とは違うのだと、突きつけられているようだった。
そんな菊地原の心境を知ってか知らずかはすでに去った背中に思い馳せるように遠くを見つめて笑う。

「風間さんはいつだって冷静で、全体を見据えた判断を下せる。後輩へのアドバイスも的確だし、面倒見もいいでしょ」
「まあ、ぼくらの隊長だし」
「うん、そうだね。でも、それだけじゃなくて一番は…風間さんは、しろくんの才能と努力をきちんと評価してくれてる」
「は…?」
「そんなふうに、私もなりたいなって」

道はまだまだ険しいね、と冗談みたいに本気を告げたの顔が菊地原の方を向く。油断したところに右ストレートを受けたような心地に、正面から彼女を受け止めることができなくて、菊地原は思わず下を向いていた。

「……は、風間さんにはなれっこないよ」

だから、のままでいて。
音にできなかった本音はきっと伝わらなかっただろう。けれど、今はそれで良い。速度の早くなった心音と熱くなった顔を隠すように俯いたまま、菊地原はが強化聴力を持っていなくてよかったと、心の底から感謝した。



内臓機能強化の副作用を持つ菊地原の幼馴染。
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