A級姉と当真


「問八、B」
「C」
「はぁ?なんでCなんだよ。Bだろ、絶対」
「ここ。足し算間違えてる」
「……おぅ」
「あとこっちは代入する数字が違う」
「…マジかよ」
「まじです。」

きっぱりと抑揚少なく告げられた四文字を合図に、当真はずるずると机の上に突っ伏した。眼前にはルーズリーフの上に書きなぐられた幾つもの数式や、チームメイトが持ってきた問題集が迫る。この場所で瞼を閉じたら、随分と夢見が悪そうだ。

「今日の待機任務中は、勉強するんじゃなかったの?」
「休憩だよ、きゅーけい!」
「もう…勇はこと勉強に関しては、感覚でなんともできないんだね」
「感覚とかじゃねーだろ、コレ」

低い位置から目だけを動かして向かいの席の少女を見上げる。癖のない真っ直ぐな黒髪をひとつに束ね、珍しく眼鏡をかけたの視線は、未だに手元のノートに向かったまま、動くそぶりを見せない。こうした自然体さが気を許されている証だとわかってはいるが、自分がこうして手を止めているにも関わらず、何の反応も示されないことが無性に面白くない。のっそりと頭だけをテーブルから起こし、頬杖をついた当真はの眼鏡に手を伸ばした。

「ちょっ…勇。眼鏡、返して」
「珍しいよな、コレ」

数字ばかりに集中していたから、眼鏡を奪うのは簡単だった。瞬間、自分に向いた彼女の瞳に当真の口元が綻ぶ。たとえその目が、どこか呆れを含んだものだったとしても、だ。

「お前、視力悪かったっけ?」
「日常生活には支障ないよ。勉強する時だけときどきかけてる」
「へー。しっかし、飾りっ気ねーな。もうちょい、洒落たやつなかったのかよ」
「別に勉強用だし、誰に見せるわけでもないんだから何でも一緒でしょ」
「俺、見てんじゃん」
「勇相手に着飾る意味、あるの?」

本気で意味がわからない、と言わんばかりのの様子に、当真は喜ぶべきか悲しむべき、激しく悩んだ。待機任務中の隊室で、隊長とオペレーターが席を外している二人きりの時間を苦なく過ごせる間柄なのは、悪いことではないはずだ。しかし、年頃の男女が並んで、なんの色染みた感情もないなんて、さすがにそれはないだろ。
フレームを持って眺めていたそれを、当真はゆっくり自分の顔に重ねる。レンズ越しに視えた世界は、ほんの僅か、日常よりもぼやけていた。目の前の人間の動きや表情の種類はわかるけれど、の些細な機微を読み取るには足りない、そんな世界だ。普段とは違う視界を眺めていると、ぼやけた中でも分かるくらいあからさまな溜め息を吐いて、がシャープペンを机に置いた。

サンも休憩ですか?」
「勇がそんなだと集中できない」
「言うねぇ。ひでーの」
「ひどくないです。…コーヒー、いれてくる」

そう言って立ち上がったは、給湯スペースの方へと消えてしまった。暫くは背中が消えた先を眼鏡越しに眺めていた当真だったが、不意に存在を主張するように震えたスマートフォンに視線を動かす。眼鏡を外して液晶画面をタップすると、同年代の友人何人かで作ったグループに連絡が届いていた。内容にさっと目を通した当真は、離れた場所のにも聞こえるよう、声を上げた。

「荒船から、夕飯皆で食わねーか、って」

幾らかの間を空けて、が頭だけを覗かせる。相変わらずあまり表情の変化は読み取れないが、レンズを外せば僅かな眉の動きや口元の変化、瞳の揺れ具合だって分かる。だからこそ当真にはの答えが手に取るようにわかった。どこかの誰かのサイドエフェクトだって、ここまでの精度は持っていないだろう。

「…それ、勇に来た誘いじゃないの?」
「別に密談するわけじゃねーし、問題ないだろ。大体、毎度のことじゃね?」
「それはそうだけど……みんなが良いなら、行く」
「おう。じゃ、荒船に連絡しとくわ」

小さく頷いて再度姿を隠したを見送り、当真ももう一度手元の画面に目を向けた。手早く二人参加の意を送信すれば、即座に企画主以外のところから反応が返ってくる。普段は犬飼やら北添あたりが早いのだが、今日は珍しく影浦からだった。「なら、ウチ来い」メッセージはそれだけだ。一体何のことだと首を傾げたくなるような七文字だが、意味の分かる当真は口端を釣り上げてニヤリと笑った。

「場所、カゲんとこな」
「本当?」

姿は見えないが、声に籠められた喜色の感情は手に取るようにわかった。言葉にして確認したことはないが、はお好み焼きが好きらしい。それもチーズだとか明太子だとかトッピングがされたものではなく、シンプルな豚玉を頬張っている時が一番幸せそうにする。影浦や荒船が生地を焼いている姿を眺めているときは、表情こそ変えないが、目がキラキラと輝いているのだから、分かりやすいものだ。
もちろんの好物は、当真だけでなく他の同輩たちも知っている。だからこそ、わざわざ影浦からあんな誘いがあったのだろう。

「相変わらず、甘いよなぁ」
「何が甘いの?」

湯気の立つマグカップふたつを両手に、が小首を傾げる。当真が何でもないと首を振れば、特にそれ以上問われることはなかった。にも、これは答えが得られない問いであることがわかったのだろう。追及の代わりに、コツンと音を鳴らして、テーブルにコーヒーが置かれる。

「サンキュー」
「ついでだから」

返事は素っ気ないが、口に運べば自分好みの砂糖をひとつまみだけ入れたコーヒーの味がした。こちらも確認されたことはないが、当真がコーヒーを飲む姿や反応から、いつの間にか知られていた。
お互いが、そうだった。無駄な会話が無いわけではないけれど、必要以上に踏み込まず、時間をかけて観察して、たくさんのことを共有した。
自分との関係は、きっとこのコーヒーのようなものなのだろう。ほろ苦く、けれど実は隠れて甘さが紛れ込んでいるそれをもう一口飲み込んで、当真は真っ直ぐにを見据えた。

「ま、悪くないよな」
「インスタントだもん。過度な期待はしないで」
「へーへー」

会話になっているようで検討違いな会話に、当真はカラリと笑う。すぐには眼鏡をかけ直し、参考書に向かってしまっていたが、それでも隊室の中が居心地悪くなることはなかった。



A級姉と当真の日常。
ふたりの距離感を書きたかっただけ。

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