A級弟と烏丸


防衛任務を終えて支部に戻ると、奇妙な光景が目の前に広がっていた。俺が戻ったことにも気が付かないらしく、その人は腕を組んだまま難しげな顔で、うんうん、と唸る。普段は決断力に長けた先輩にしては、なんとも珍しい光景だが、この人を悩ませる原因など、ひとつしかない。案の定と言うべきか、眉間に皴を寄せた先輩から視線を落とせば、目の前のテーブルに置かれた一皿のクッキー。昨日、先輩が玉狛支部に遊びに来たときに持ってきたものだ。

「食わないんすか?」

向かいのソファーに荷物を置いて声をかけると、漸く気が付いたらしい先輩が徐に顔を上げた。が、相手が俺であるとわかった途端、あからさまに舌を鳴らす。相変わらずの期待を裏切らない安定具合に、思わず表情が崩れそうになるのを必死に堪えた。

「なんだよ、烏丸か。なんか用か」
「別に用はないですけど。それ、食わないんですか?」

ちなみに先輩の前にあるクッキーのほか、先輩が持ってきてくれた手作り菓子詰め合わせは、俺も昨日美味しく戴いた。レモン風味のクッキーはサックリ香ばしく焼けていて、ふわふわなマフィンは甘さ控えめだったが、チョコレートがアクセントになっていて丁度良く、いくらでも食べれそうな味だった。しかも気遣いやな先輩は、わざわざ俺の家族の分まで作ってきてくれていたのだ。「いつも弟が迷惑かけます」と申し訳なさそうに微笑んだ彼女には、本当に頭が上がらない。
まあ、見事に先輩の防衛任務に合わせて先輩が来訪したせいで、先輩には僅かしか残らなかった訳だが。

「食わないわけねぇだろ」
「でも、眺めたまま唸ってるじゃないすか」

愚問とでも言わんばかりな素っ気ない口調で、先輩は言う。
極度に極端を掛け合わせても足りないくらい重度なシスコンの先輩に限って、食べないという選択肢が存在するとは端から思っていない。むしろ、昨晩支部に先輩が戻ってきたあと、既に先輩は帰宅していて、更には机の上のクッキーを残して全て皆で食した後だと告げたときの反応を思い出す限り、本当なら先輩の手作り菓子全部を食べたかったはずだ。あれは酷かった。迅さんが予測して先輩に電話してくれていなかったら、支部が潰れていたかもしれない。近界民にではなくボーダー隊員に支部を破壊されるなんて、笑い話にもならない。
だから、俺が気になっているのは、クッキーを食べるのかどうか、ではない。なぜクッキーを前にしながら、手を伸ばさないのか、ということだ。

「食べないなら、俺が」

食いましょうか、と続くはずの言葉は、ギロリと向けられた鋭い視線に阻まれる。やっぱり、訳がわからない。怒りを覚えるくらいに大切ならば、俺の目に触れる前に、食べきってしまえばいいのに。
先輩と同じように、無言のまま眼だけで訴えかけ続ければ、漸く折れた先輩があーとかうーとか意味なく再び唸る。そして、視線を遠く天井の彼方に向けながら、言った。

「…だって、勿体ないだろ」
「何がですか?」
「クッキーだよ、クッキー!姉さんが作ってくれたクッキーなんて、勿体なさすぎて、気軽になんか食えないだろ!?」
「………はあ」
「焼き立てを逃した以上、それ以外で最良の食べ方を考える必要がある。最低限、俺が適度に空腹であること。後は食べ合わせとか、時間とか…色々あるだろ」
「色々、ですか」
「ああ。だから、姉さんのクッキーを今できる一番の状態で食べるにはどうしたらいいか、考えてんだよ」

…この人は、見た目もまともで、ボーダー隊員としての実力も人並み以上の学力も持ち合わせていれのに、どうしてこんなに残念なんだろう。頭を働かせるべき方向性がひん曲がりすぎていて、もう正しさが何だったのかもわからない。
今なお、真剣に悩み続ける先輩に告げるのは憚られるが、恐らく先輩が悩めば悩むほど、机の上のクッキーは乾いていくし、味も落ちてしまうのではないだろうか。これは「早く食べた方が良いですよ」と助言すべきだろうか、と数拍考えたが、面倒な反応が即座に頭に浮かんだため、却下した。
だが、このまま放置し続ければ、また支部の存続に関わる可能性もある。正直なところ、面倒でしかなかったが、この状況をなんとかするべく、重たい口を開いた。

「一緒に何か飲むなら、シンプルなものの方がいいと思いますよ」
「はぁ?」
「クッキーです。レモンの風味が適度に効いてましたから。香りが強いものとあわせると、風味が消えてしまうと思います」
「……」
「そういえば、レイジさんがコーヒーと一緒に食べて、失敗した、って言ってましたね」

沈黙。俺の言葉を最後に、室内には重い帳が落ちたようだった。だが、それも長くは続かなかった。先輩がポツリと俺の名前を呼んだのだ。

「…………烏丸、お前」
「なんすか」
「いや、意外にいい奴だな」

ニヤリ、屈託なく笑って、先輩は勢いよくソファーから立ち上がる。そして、俺の方へと視線だけ寄越すと、今までお目にかかったことの無いような優しげな表情で言った。

「紅茶、淹れてくる。フレーバーじゃないやつ」
「はあ」
「お前の分も淹れてやるよ。俺のお茶が飲める奴なんて、そう居ないんだ。姉さん以外じゃ、ボスと小南くらいだぜ。ちゃんと待ってろよ」

そう言って、キッチンの方へと向かう先輩の後ろ姿は妙に晴れやかで、生き生きとしていた。先輩のことが世界の中心で、他には欠片も心を打たれない人だと思っていたけれど、どうやらそうでもないらしい。でなければ、俺に対してあんな顔で笑って見せたりはしないだろう。
先輩にも、こんな一面があったのか。どうやら俺は、まだまだ先輩のことを分かってなかったようだ。
先輩が淹れてくれる紅茶を飲みながら、今日は先輩ともう少し話してみようか。意外に賑やかになりそうな茶会を想像しながら頬張ったクッキーは、口の中で程好くほどけて、ほのかに甘い味がした。



シスコンを拗らせた弟と烏丸。
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