花散る水面


こんこん。

閉じた窓を叩く小さな音に、工部尚書の管飛翔は立ち上がる。
「入りますよ」の声だけで返事を待たずに尚書室に入った欧陽玉は、窓辺に立った大柄な背の向こう側で、風になびく黒髪に気付き目を瞠った。

「飛翔さん、お邪魔するよ」

窓枠を軽々と乗り越え(ただし工部の尚書室は二階にある)ひらりと室の中に舞い降りた少女は、飄々とした笑顔で言った。
本来ならば女性厳禁の外朝である。いくら侍僮の格好をしていたとしても、正真正銘女人である彼女 ―― ―― がうろついて良い訳がない。が、そんなことをちっとも気にした様子もなく、管飛翔は窓からの来訪者を快く歓迎した。

「おう、じゃねーか!どーした、酒でも飲みに来たか!」
「ちゃうちゃう、お使い。じーさんに頼まれて来ただけだよ」
「なに言ってんだ!どうせ暇なんだろ?だったら呑んでいけよ」

相変わらず、と肩を竦めたは、肩に背負っていた風呂敷包みを近場の机案におろす。どさっと大きな音がしたあたり、かなりの量があるらしい。

「その前にこれを届けさせてね。はい、じーさんから」
「ん?なんだこりゃ」

包みを開くと、現れたのは白くてほっこりとした丸い物体。ほんのり、甘い香りも漂っている。

「みてのとおり、梅饅頭。酒のつまみにどうぞ」

彼女曰くじーさんである、霄太師からの届け物を訝しげに眺めていた管飛翔ではあったが、それも僅か。おもむろに一番上のひとつを手に取り口に運んだ。そして飛び出た言葉は「美味いじゃねえか」の一言。

駄目だ、これは。

あまりに"常識"という概念がどこかへ飛んで行ってしまったやり取りに頭を抱え、それまで傍観の立場に回っていた玉は堪え切れずにずかずかとふたりの間に入り込む。そこでようやく自分の方を向いた少女に、玉は声を抑えずに突っ込んだ。

!貴女、また窓から入ってきたんですか!?」

霄太師の養女でありながら、何故か侍僮の格好をして霄太師付きの雑用係をこなしているは、その立場と外見と性格ゆえに広すぎるほどに顔が広い。加えて"一応"侍僮、すなわち男として認識されているために(突っ込んではいけない、というのが朝廷における暗黙の了解となっている。破ると御史台に睨まれるとか吏部から左遷を命じられるとか噂は絶えない)、どこを歩いていてもさしたる問題がない。
だからこそ、工部に来るなら正面から堂々と入って来いと、何度言ったことか!玉はあははと誤魔化すように笑う少女をこれでもか、というほどに睨んだ。が、当の本人はどこ吹く風。ぽんと手の平を打つと、机案の上の梅饅頭を懐紙でひとつ掴んで玉に差し出した。

「欧陽侍郎もどうぞ。いっぱいあるから」
「ああ、ありがとうございます…って、本当に山のようにありますね」

完全に話を逸らされたのだが、それ以上に机案にこんもり積み上がった白い物体に眼がいってしまった。
話題のそれを持ってきたは、途端苦々しげに視線を外す。どうやら、この白い物体に対し嫌な思い出でもあるらしい。

「これでもかなり減ったんだよ。邵兄に、鳳珠さん、景侍郎、絳攸…あと、魯官吏にも渡してきたし、うー様のとこも行ったし。行きたかなかったけど御史台と羽林軍にまで行ったんだよ。あの、人遣いのあらいじーさんの所為で!」

嫌な思い出があるのは梅饅頭にではなく、配達の任務をに命じた霄太師に対してらしい。
普段は簡単に怒りを露わにしない彼女をこうも怒らせることが出来るのは、彩雲国広しと言えど、おそらく霄太師くらいだろう。良いかどうかは別として。

「…どうしたんですか、こんな量の梅饅頭。まさか、作ったんですか?」
「まさか!なんでも、とある計画を行う上で必須あいてむだったらしいんだけど、ちょっとした手違いで使う機会を逃しちゃったらしくてさ。手配だけしちゃった梅饅頭と梅茶が大量発生したらしい」

梅饅頭と梅茶を大量に使う計画。
玉は頭が痛くなった、気がした。というか実際問題胃が痛い。
朝廷三師のひとりともあろうお方が、いったいなにをやっているんだ。大体、梅饅頭と梅茶をここまで大量に必要とする計画なんてものが存在するのだろうか。嫌がらせ以外で。

「…霄太師も、いったい何をされているんでしょうね」
「私にはわかんないから、じーさんに直接聞いて」

どうやら、使われなくなった哀れな梅饅頭の被害をもろに受けているにも本当に解からないらしい。腹立たしく地団駄を踏むところを見ると、おそらく適当にあしらわれたか、「お前、そんなこともわからんのかわしの養女ともあろうものが情けないそんなんじゃからいまだに嫁の貰い手が見つからんのじゃ」とでも嫌味を言われたか。毎回の愚痴に付き合っている玉も、いい加減霄太師に大人になれと直訴したいと思った。

(大体、嫁の貰い手が見つからないようにしているのはあの方でしょうに!)

心の中で幾ら玉が毒吐いたところで、現状は一寸たりとも変わらないのだがそれでも吐きたくなるのが人の常である。特に、何かと霄太師に邪魔されている玉の恨みは深かった。

「にしても…!てめぇ、オレんとこは最後に来たのかよ!」
「当たり前でしょ、飛翔さん。こんなとこに最初に来たら、酒臭くなって鳳珠さんのとこに行けなくなるよ」
「まあ、一理ありますね。どこぞの酔っ払いの所為で、酒を呑んでいなくとも臭くなりますから」

現在進行形で、彼らのいる尚書室は酒飲大会明けの会場並みに酒くさい。下戸が入室しようものなら、匂いだけでノックアウト間違いなしだ。

「あ、欧陽侍郎、梅茶も呑む?」
「頂きます」
「飛翔さんにはこっち」

いつのまにやら懐から取り出したらしい梅茶を手際よく淹れながら(茶器も持参していたらしい)、は手のひらサイズの酒瓶を放る。難なく受け取とり蓋を開けた飛翔は、匂いを嗅いで首を傾げた。

「なんだこりゃ」
「梅酒。じーさん特製らしいから、味と度数は保障するよ」

なんでも梅を酒にじっくり漬けて去年から密かに作っていたらしい。
が告げると、飛翔は嬉しそうに瓶を口につけ思いっきり仰いだ。景気の良い呑みっぷりを見る限り、どうやらお口に召したようだ。

「…、貴女って人は」
「まあ、そろそろ仕事も終わる時間かな、って思ったし。欧陽侍郎が止めない、ってことは、目処がついてるんでしょ?」

悪びれた様子を微塵も見せない姿に、結局玉は折れるしかなかった。
実際、の言うとおり今日の仕事の目処はついている。先ほど玉が尚書室を尋ねたのだって、仕事終わりを上司に伝えるためだ。

「まったく、あなたには敵いませんね」

負けを認める言葉には、一欠けらの毒もない。
あくまで優しく穏やかな声に、は自然と頬を緩ませ笑った。その表情に自分が弱いことを、玉は当の昔に知っている。

しかし、こうも負けてばかりでは男としての面子が立たない。
室の外に霄太師の気配がないことを確認し、玉は碗に茶を注ぐの短い黒髪にそっと手をのばした。

「ところで。以前お届けした簪は、挿して頂けていないようですね」
「……あれ、私には似合わないよ」
「なにを言うのですかッ。私の眼に狂いはありません!
 まあ、確かに貴女の美しさを前にすればあの程度の簪では霞みますが、色を沿える程度には十分役立つはずです」
「や…そういう意味じゃなくて」
「大体、どうして貴女はこんなに短い状態で髪を揃えているんですか。せめて髢(かもじ)でも使って結い上げなさいッ」
「でも、長いと何かと面倒っていうか邪魔っていうか」

形勢逆転である。
産まれもった素材が良いだけに目立つ彼女の無頓着さに突っ込んで、いまだが言い勝った例がない。いつも敵前逃亡か、渋々承諾させられるのが関の山だった。
玉からすれば、「宝の持腐れ」と称される彼女の美しさを無粋に扱うなど、断固として許せるものではなかった。と玉の仲は比較的良好(ただし"仲"の見解は両者で異なる)だが、この一点に関してのみ、は玉のことが苦手だった。

さて、今日はいったいどうなるだろう。
酒の肴に見物していた飛翔が密かににやけていると、尚書室の扉が是非も問わず勢いよく開いた。
誰かと思い視線を動かした飛翔と玉は、そろって二の句が継げなくなった。なんだって、この人が工部に。珍しく、意見が合った瞬間だった。
その中で、さしたる衝撃を受けなかったは、現れた人物に素直に首を傾げ、問う。


「あれぇ?なんで隼凱さんが工部に来てるの?」


尋ねられた宋隼凱は大股でに近づくと、問答無用で彼女の首根っこを引っ掴んだ。

「ぎゃ!ちょっと首!首絞まるから!」
「うるせぇ!てめぇ、そんなもんでくたばるような可愛らしいもんじゃねーだろ!」
「なに言ってるの、隼凱さん!私、か弱い女性!しかも嫁入り前!」
「か弱い女人がわしから半刻も逃げ切るかっ!戸部に居たかと思ったら今度は礼部、府庫に御史台と朝廷一周しちまったじゃねーか!」
「わお、それは素敵な運動。お年寄りには適度な歩行が必要ですよ」
「じゃかしーわ!てめぇが霄から逃げ回ったツケがこっちに回ってきてんだ、こっちに!いい加減腹括って仕事しやがれ!」

宋太傅に掴まれたまま、はぶうと頬を膨らませそっぽを向く。
そんな彼女の態度に苛立ちつつも、やっと飛翔と玉の存在に気付いたらしい宋太傅は「おう!」と何事もなかったかのように笑う。大物である。

「そ、宋太傅…、殿は何かしでかされた、のですか」

恐る恐る尋ねてみる。
これも実は、霄太師の妨害工作の一旦ではないのか、と玉はいい加減泣きたくなった。今度はなんの嫌がらせだ。
しかし、これまで幾度となく霄太師に邪魔されている玉の過去など知らぬ宋太傅は、朗らかに笑いながら言った。

「こいつ、今度後宮に入った貴妃付きの女官になれって霄に言われててな。一度は承諾したくせに、いきなり嫌だとか言い出しやがって、もう十日近く逃げ回ってんだ」
「貴妃付き…!貴女、女官になるんですか!?」
「違うから、欧陽侍郎!嫌だって言ってるの!」
「最初は良いっつってただろ!?」
「それは主上の側近候補に藍楸瑛がいるって知らなかったから!隼凱さんこそ、知ってるくせに教えてくれなかったじゃん!私があの人苦手なの知ってるくせにっ」

叫んだは、体をくるりとひねらせて器用に宋太傅の手から逃れる。すぐさま窓辺に駆け寄ると、顔だけでふり向き褐色の瞳で宋太傅を睨んだ。

「絶っっっ対、女官なんかにならないからね!!!」

まるで捨て台詞のごとき言葉を残し、躊躇いなく窓から飛び降りたの姿は、日が暮れて暗くなった外朝の奥へと消える。
取り残された男三人は、舌打ち一度ですぐに室から飛び出していった宋太傅を除き、しばし呆然と嵐の過ぎ去った後を眺めていた。




お茶から湧き立つ湯気が消えかかった頃になって、ぽつりと飛翔が呟いた。

「まぁ…気長にがんばれや」
「あなたに慰められてもてんで嬉しくありません。むしろ、そんなことを覚えているようでしたら、私の名前を先に覚えてくださいこの鶏頭」

突っかかる反論にもキレがない。
これ以上何を喋っても無駄だと悟った玉は、冷えた梅茶を無言で口に運んだ。

(今度は…耳環でも贈りましょうか)

ほんのり甘いお茶は冷めても美味しく、心地良い梅の香りが鼻をくすぐった。



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