星が溶けゆく明け方


そして、友は旅立った。自分にしか守れない沢山のもののために。
けれど、私はどうして ――――― 今もここにいるんだろう。




ふと、夜明け前に目を覚ます。
室の窓から、まだ一筋の光も差し込まない時間。ただ、ほんのりと白みだした空が夜の暗闇を少しずつ追い出し始めているのがわかった。
寝台で布団に包まった体は、真冬だと言うのに汗をかいていた。じっとりと肌に張り付く寝間着が気持ち悪く、むかむかと気分が高まって、もう眠れそうにない。仕方なく、素足のまま寝台を下り、室を出た。


雪で埋まった庭院は、夜と朝の境に染まって淡く青く輝いていた。
ほっと吐き出した息は白く、肌に突き刺さる寒さの中に溶けてゆく。薄衣一枚引っ掛けた姿ではさすがに肌寒いが、さきほどまでの嫌な気分を考えないようにするには丁度よかった。少しくらい、体を痛めつけた方が気が紛れる。暖かな室で、穏やかに生活をしていると、自分で自分の喉を絞めたくなるような衝動に駆られるのだ。まるで、呼吸をすることすら、今は罪のように。

室の前の石段に腰を下ろして、庭院を眺める。
服越しに伝わる温度に、背中の真ん中から体が固くなっていくのがわかった。このままここに放置されたら、眠るように死ぬのだろうか。陽が昇り、家の者が働きはじめるまであと一刻はあるだろう。死ぬのなら、誰かのために死にたいと思っていたけれど、こんなにも無力さばかりを身に刻まれるのなら、いっそ終わってしまいたいとも思う。

昔は、珀のために生きているのだと思っていた。
けれど、今はあの心優しく気高き友たちのために生きたいと思った。


「…秀麗、影月くん…」


たとえ空が繋がっていたとしても、こんなところで名前を呼んでも意味なんてないことは知っている。自分に出来ることなどただのひとつもなくて、今はここで名前を呼ぶしかないことも解かっている。
それなのに、どうしてこんなにつらいのだろう。
どうしてあんな夢ばかり、みてしまうのだろう。
悴んだ奥歯がカチカチ鳴った。寒さの所為なのか、それとも憤りの所為なのか。真っ赤に染まった指先をきつく握っても、喉の奥から込みあがってくる悔しさをなかったことにすることはできなかった。


「…?」


唐突に呼ばれた自分の名にハッとして、一拍遅れて振り返る。
視線が交わると、名を呼んだ相手は怪訝そうに眉を寄せた。どうやら、何か怒っているらしい。ずかずか音が鳴るくらい大股で近寄ってきた彼は、自分の羽織っていた衣をこちらに押し付けてきた。まだ、体温が移りきっていない冷たい衣。彼は、私にこれを渡すためだけに、室から持ってきてくれたようだ。


「珀、どうしたのこんな時間に。まだ、寝ていても平気でしょ」
「それはこっちの台詞だ。お前、昨日も一昨日もまともに寝ていないだろう。寝ぼけて工部での仕事をとちったらどうする気だ」
「これくらい、どうってことないよ。今日も昨日も、少し早く目が覚めただけだし。それに、珀だって新進士のときはもっと夜更かししてたじゃん」


渡された衣を有り難く肩に羽織り言えば、珀はぐっと声を詰まらせた。寝不足・夜更かし・無理のし過ぎに関しては、私なんかより珀の方がよっぽど重症だ。先日、秀麗が貴陽に帰ってきた際に、彼女の叔父上である吏部尚書が奇跡を起こしてくれたおかげで現在はちゃんと邸に帰ってくることが出来ているけれど、普段だったらそうはいかないだろう。おそらく実妹の体調に気付くことだって、少なくともあと三日は遅かったはずだ。
つくづく、秀麗の叔父上とは厄介な存在である。


「お前がここで気を揉んでも、意味はないだろ」
「…珀に言われなくたって、そんなことわかってる」


いつの間にか、隣に座っていた珀は大きく息を吐いた。
自分だって、気が気じゃないくせに。珀が日々日記の如く、思いついた文句を書簡にしたためているのなんかとっくの昔に知っていた。茶州の事件が収束し、無事二人の州牧の手に文が届く頃には、きっと希代の小説家も吃驚するような大長編に仕上がっていることだろう。そして、二人の州牧はなんだかんだ言いつつも、しっかりそれを読んでくれるのだと思う。

その日まで、彼らが無事ならば。

先ほどよりも少し、温かくなった肩を抱いて空を見上げる。それから、さっきは呼べなかったもうひとりの友の名を、心の中で呟いた。
彼の人が、ふたりの州牧のために茶州に発ったと報告を受けたのは二日前のことだ。"あの"彼が、極々普通の青年らしい格好をして、電光石火の如く馬を駆っていったと聞いて、まず頭に浮かんだことは「羨ましい」の一言だった。最悪だと思う。秀麗が貴陽で、どれだけがんばっていたのか、見ていなかったわけではない。自分も工部官吏のひとりとして、欧陽侍郎や管尚書にもこき使われ、できる限りのことをしたと思う。けれど、それでも秀麗の願いを叶えるには難しく、何より、ふたりの絶対的な安全を確保するには程遠かった。
それなのに、なんてことを考えたものだろうと思う。
我ながら、友と言うにはおこがましい性格である。しかも、毎晩毎晩忘れずに秀麗と影月くんがいなくなる夢をみるなんて―――――本当に、最低だ。


「…龍蓮がね、行ってるんだよ」
「あの笛吹き馬鹿が、茶州にか?」
「うん。龍蓮は、ずっと影月くんを助ける方法を探してたの。でも、二日前に茶州に行っちゃった」
「……そう、か」


珀は影月くんが今、どんな状況にあるのかきっと知らない。私だって、龍蓮にそれとなく教えて貰っていた分しか知らないから、後は想像するしかない。
けれど私は、影月くんの体のことは知らないけど、龍蓮がどれだけ影月くんを大切にしているのかは、知っている。だから、解かる。龍蓮は、きっと泣くだろう。だって、初めて見つけた友達だ。私とも珀とも秀麗とも違う。私達も龍蓮の初めての友達かもしれないけれど、私たちでは影月くんの代わりにはなれない。龍蓮を受け入れてくれる影月くんの笑った顔は、影月くんにしか浮かべられない。だから、龍蓮は泣くだろう。影月くんが、いなくなったら。


「悔しい…悔しいね、珀。どうして私、貴陽にいるんだろう」
「…僕にもお前にも、茶州へ行ってあいつらのために出来ることなんて、ひとつもないからだろう」
「そんなの、わかってるよっ!でも…でも、悔しいよ…!」


こんなところで、私が泣いたところで代わりになんてならないのに、それでも眼からは泪が出た。珀に見られることが無性に嫌で、抱えた膝に顔を伏せてついでに肩に羽織っていた衣を被る。隣で、またしても大きな嘆息が聞こえた。
珀の言っていることは正しくて、感情的になっているのは私の方だということは誰の目からみても明らかだ。けれど、それでも行きたかった。なにができるわけでもなく、足手まといにしかならないとわかっていても。悔しかった。何も出来ずに貴陽で待つしかない自分の身が。
馬を駆れば行けるのに。空はちゃんと繋がっているのに。私達の距離だけは、今もこんなにはっきり開いたまま。
慰めるための手すら、彼らの元には届かない。


「…僕達は、ここで待つのが役目なんだ」


冷えた手が、ぎこちない動きで肩を抱いた。珀はもう少し女の子とのお付き合いの仕方を学んだほうが良さそうだ。妹への態度としては、間違っていないけれど。


は工部で、僕は吏部で。
 茶州の騒動が一段落した後にも、やらなければならないことは山ほどある」
「…うん」
「笛吹き馬鹿にも…おそらく、州牧位を剥奪されるあいつらにも出来ない。中央で、今後あんなことが起こらないよう、国を見張る手助けをするのが、僕達の役目だ」
「わか…ってる、わかってる…」
「なら、馬鹿なことを考えずに仕事をしてろ。
 …ここ二日、工部の大砲娘がやけに静かで気味が悪いと、吏部の先輩も零していたぞ」
「なに、その大砲娘って」
「それくらい煩いってことだろ。本当のことじゃないか」
「…吏部に送る書類、四割増しにしてやる」
「それくらいやる気になって働けば、嫌な夢もみないで眠れるだろう」
「………」


知ってたのか、と眼だけで睨めば、ひどい顔だと指で目尻を擦られた。
体中を湿らせていた脂汗もいつのまにか乾いていて、肌に痛い朝の気温もそのままに感ぜられる。

ああ、そうか。ただ待つことも、友の役目のひとつなんだ。

納得した途端、目頭はまたも熱くなった。口惜しくも珀が、私の頭をよしよし撫でている所為だ。


「馬を駆って二人のもとへ行くことを選べた龍蓮が羨ましいって思ったけど、もしかしたら龍蓮は私と珀を羨ましいと思うかもしれないね」


遠くでふたりを信じて、待っていられるのは相手を想っているからこそ。
ねえ、龍蓮。きみは知らないかもしれないけど。
秀麗と影月くんと龍蓮は、私にとっても初めて出来た"友達"だったんだよ。
だからどんな風に接したらいいのか、本当は解からなくなることが沢山ある。大切な家族はいたけれど、ほんの少し道を間違えただけで目の前から簡単にいなくなる、他人を大切だと想ったのは、きみたちが初めて。

人付き合いって難しいね。
そう漏らしたら、片割れは「お前の扱いほどじゃない」と言う。なんだか無性に腹が立ったから、服の上から脇腹を思いっきり抓ってやった。
彼らとも、こんなふうに笑えたらいい。
だから絶対、生きて帰ってきてほしい。途方もない、最上級の我侭で願った。
遠くても、それでも繋がった空が、欠片を降らせてくれたらいい。



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