幸せな瞬間


きみに名を、呼んでもらえるだけで楽しい。
そんなことを言ったら、きみはなんて言うだろうか。




「龍蓮!」

名を呼べば、振り返る彼の姿が嬉しくては駆け寄る足を更に速めた。
目前で足を止め、顔をあげて視線を交わす。数ヶ月前、別れたときよりも少し嬉しそうな顔をしている。そんな変化を彼が手にいれられたことがまた無性に嬉しくて、言葉も発していないのに自然と笑みが零れてしまう。
龍蓮、ともう一度名を呼ぶと、彼も落とすように微笑んだ。

「笛の音なくとも訪れるとは。さすが、心の友其の四だな」
「当然。だって、私は龍蓮のこと大好きだからね」

照れも迷いもなく告げ、は龍蓮の体をぎゅうと抱きしめる。
碧家直系の姫がこんな無作法を、と詰られかねない行動だ。けれど、も龍蓮もそんなことは露ほども気にしないし、夜の龍山麓には人影もない。だから、というわけでもないけれどは躊躇うことなく龍蓮の胸に顔を押し付けた。そこから伝わる心臓の音と確かな温もりに、彼が今もまだこの世界と関わっているのだと知る。

(まだ、大丈夫)

漏れた呼吸は安堵のもの。それから、今度逢えるときは大丈夫だろうか、という不安のもの。
背中に手を回したままの体勢で、はもう一度顔をあげる。ずっと自分を見下ろしていたらしい龍蓮と顔を合わせ、「それに」と先ほどの続きを紡いだ。

「笛を吹いてなくても、龍蓮が呼べば私も秀麗も影月くんもみんな、飛んでくよ。もちろん、珀もね」
「私は君を呼んだだろうか」
「うーん…今回はわかんないや。私は、龍蓮が呼ばなくっても龍蓮のところに来ちゃうからね。迷惑だった?」
「 ―――― いや。声無くとも通じ合えるとは、やはり私達は彩八仙すら霞む絆で繋がった間柄のようだな」

当然、と心の中ではまた呟く。
大した才も権力も持ちあわせていない(碧家の権力は親のものであってのものではないのだ)には、藍家や紅家のように龍蓮がいつどこでなにをしているのか、全てが解かるわけではない。だから、はなけなしの伝手と情報網を駆使して、龍蓮に関する情報を出来る限り集める努力を欠かしたことがない。今回だって、「脳内破壊を勃発させる壊滅的な笛を吹く男が紫州に向かっている至急対策立てるべし」という情報が茶州の方から伝わってきたから、逢いにこれたのだ。
州牧である、ふたりの友人の居場所は簡単に解かるし、彼らを助けられるのはではない。また、双子の兄も同様だ。彼の行動にが口を出そうものなら、逆に十倍以上の説教が返ってくること間違いなしである。
だから、は龍蓮の情報を集めることだけに尽力を注いだ。国試の受験会場で出逢った、偶然が産んだ友人らの中で、唯一ひとりぼっちの彼をどんなときでも助けれるように。何かあったら、すぐに駆けつけることができるように。
もちろん「藍龍蓮」である彼に、の手助けなど雀の泪ほどの効力も持たないことは重々承知の上。と言えど、自分に龍蓮の手助けが出来るなどとは考えてもいない。あまりに完璧すぎて、世界からも見放されかけた彼の為に自分ができることは、たったひとつしかないのだから。

「…彩八仙は隣に居てくれないけど、龍蓮はいてくれるもんね。
 ねえ、龍蓮。こないだ、珀がまた龍蓮のこと怒鳴ってたよ。『秀麗と小動物を尋ねるのなら、何故僕に一言いっていかなかった』って。珀も照れ屋だよね。素直に、仲間はずれにしないで、って言えばいいのに」

の双子の兄である碧珀明は自他に非常に厳しく理想も矜持も高いため、何かと言うと自分たちを怒るのだ。もちろん、それが心配という名の柔らかな感情を土台に作られたものであることは誰の目のも明らかではあるが、本人は決して認めないしおそらく気付いてもいないのだろうと片割れであるは思っている。
此度の龍蓮に対する怒鳴りだって、本当はこれっぽっちも怒ってなどいないのだ。なにせ「龍蓮が茶州金華で秀麗と影月に梨を渡したらしい」とが話したときの最初の表情は、怒りでも妬みでもなく、心の底からほっとした安堵のものだった。次いで「しまった」と目を瞬かせて、三つめでやっと「何をやってるんだ、あの馬鹿は!」という怒声が出てきた。どうにもこうにも真っ直ぐ過ぎて素直になりきれない兄である。三人が心配だったなら照れずにそう言えばいいものを、何が邪魔をしているのか終ぞ「やつらは無事か」とに尋ねることをしなかった。そこがまた、兄の可愛いところでもあるのだが。

も、怒っただろうか」

おそらく今頃、吏部の仕事から帰宅して(確か今日は帰れそうだと連絡があったはずだ)の留守にいつもどおりぶつくさ文句を言っているであろう兄を思い浮かべ、くすりと笑ったに龍蓮が尋ねる。
そんなこと、今の私を見れば一目瞭然だろうに。けれど、の大切な友人にとって人の心の機微は未だ未知のものなのだ。世の隆盛や家同士の思惑、王の政策だとか、そういった類のことには敏感なのに、普通の人ならば解かるであろう簡単なことが彼には難しい。そんな友人を、は愛しいと想う。秀麗と兄が怒る分、影月くんと自分はめちゃくちゃに甘やかしてあげたいと思うのだ。

「私は怒らないよ。だって、私の分も珀が怒ってくれるからね。
 珀が怒る分、私は感謝するよ。朝廷で、働くことにかまけた私達の代わりに、二人を助けてくれてありがとう」
「心の友の助けとなるの友としては当然のことだ」

ふっと冗談みたく笑いながらも、龍蓮が心の底から喜んでいることがにはわかった。これほどに真っ直ぐで偽りない存在を、龍蓮以外には知らない。だから、向けられるほんのわずかな感情の起伏さえ、嬉しいと感じてしまうのだろう。

「秀麗と影月くんは優しかったでしょ」
「…帰れと言われた」
「だろうね。私と珀でもそういうよ。だって、龍蓮は大好きな友達だもん」
「嬉しかった」
「きっと…秀麗と影月くんは、半分後悔したかもね。その気持ちも、忘れないであげてね。龍蓮のことだからちゃんとわかってくれてる、って思っても…それでも、後悔しないなんてないはずだから」
も、秀麗と同じことを言うな」
「ああ、もう『ごめんね』って言われたあとだった?」
「先日夜中に訪ねたところ、そう言われたのだ。謝ることなど、ないであろうに」
「龍蓮が解かってくれてても、秀麗は嫌だったんだよ。だって真意はどうであっても、龍蓮を追い返したってことに代わりはなかったんだもの」

ふたりがどんな言葉で龍蓮を追い返したのかまでは知らないが、再び龍蓮と再会できるまできっと何度も考えただろう。もっと言い方があったのではないか、あの真っ直ぐな友人を傷つけてしまったのではないか、と。
の言葉に龍蓮は素直に頷く。秀麗の「ごめんね」をしっかり受け止めたという承知の態度。は右腕を伸ばして、自分よりも手のひらひとつ近く高い青年の頭をよしよしと撫でた。

「そういえば、秀麗も新年には帰ってくるのかな」
の属する部署を訪ねるはずだ」
「工部に?じゃあ、尚書室の窓の下の植物移植させておかなくっちゃ」
「風流を愛する君の心遣いに、心の友其の一も喜ぶことだろう」
「私も秀麗の助けになれることがあるなら嬉しいわ。
 ところで龍蓮、貴陽にいる間は藍将軍のところに滞在するの?」
「…邸には愚兄其の四がいた」
「藍将軍が邸に?吏部の、李侍郎も新年の準備で忙しくしてるって、珀が言ってた。そういうことは、当事者が一番気付けないのかもしれないね」
「私は、心の友らがいてくれて倖せだ」
「ありがとう、龍蓮。―――――珀は、無理かもしれないけれど、最悪私と影月くんは大丈夫、だからね」

引っ付いていた体をやっと離して腕の長さだけ距離を測る。けれど、この距離は一生広げたりなんかしない、とは決めている。たとえ秀麗が紅家に囚われることになっても、兄が碧家を選ばざるを得なくなっても。自分(できれば影月も)だけは、決してこの友を裏切ったりはしないと。
誓いの一端を握り、は龍蓮の目前に手のひらを差し出す。

「行くところが決まってないならうちに来ない?珀も喜ぶし、私も久々に龍蓮とゆっくり話したいし。工部攻略が終わるまで、秀麗も忙しくなるだろうし」

暫し、不思議そうにそれを眺めていた龍蓮ではあったが、十ほど数えたあとでおそるおそる自身の手を重ねる。まるで逃がすものか、とでも言わんばかりの勢いでは彼の手をぎゅっと握った。

「では、親しき友が路頭に迷うまで邪魔することにしよう」
「うん、そうしてよ。落ち着いたら、龍蓮の親しいお友達も紹介してね」
「克洵は新妻を茶州に残して来ているゆえ、土産の案内を頼みたい」
「龍蓮と一緒にお買い物かぁ。それはすっごく楽しそう!今から楽しみだね」

その後、紹介された克洵とが龍蓮の笛の音の評価について妙に意気投合してしまい、それに感激した龍蓮が新曲をいくつも披露し秀麗と珀明の精神的疲労が更に蓄積することになるのだが、これに関してはまったくもってに(当然克洵しかり、いわんや龍蓮をや、である)悪意がない。なにせ、は克洵以上に龍蓮の笛の演奏に惚れこんでおり、彩雲国一の腕前だと信じて疑わないのであった。こればかりは、兄である珀明がいくら口をすっぱくして訂正しても変わらないらしい。

「そうだ、言い忘れてた」

自分のものより大きな龍蓮の手のひらを握りなおして、が言う。

「おかえりなさい、龍蓮。また逢えて、嬉しいよ」

ここが彼の住処、というわけではないけれど。渡り鳥が羽を休める枝のように、彼の心を慰める場所でありたい。できれば、それと一緒に楽しいとか嬉しいといった感情を少しでも、共有したい。だから、「おかえりなさい」。
わずかに面を喰らった龍蓮は、ほんの少し悩んでから繋いだ手をきつく握り返した。それからぽつりと、本当に囁くような小さな声で対となる言葉を口にした。


ふたり並んで手を繋ぎ歩いた道は冬の夜ではあったけれど、なぜか内側からほくほくと温まる心安らかな瞬間だった。



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