楽のない夜





深夜、後宮からの帰路を歩んでいた楸瑛は遠くで揺れる紅い色に気付き足を止めた。

夜の鋭い空気を撫ぜるように切り割く紅は彼女の持った扇の色。確か、自分の友人が贈ったものだったはずだ。風以外の音がなくとも、耳に心地良い楽を感じてしまう動作。闇にとける淡い色彩の服を纏いながら、灯りひとつなくとも浮かび上がる姿には、如何な人間と言えど目を奪われずにはいられないのではないかと楸瑛は思う。
彼女の舞は、世界を鮮やかに彩る全ての色に等しかった。


「…まいったな」


外朝へと向いていたはずの足取りは、気付かぬうちに彼女の方へと向かっていた。
初めて彼女と出逢ったのは七年も前。けれど哀しいかな、自分が思い続けた七年分は彼女にとってたった半年の価値しかなかった。
口にしたところで、決して彼女は信じないとわかっているけれど、それでも彼女のことを一度たりとも忘れたことがないのは紛れもない事実。今も懐に忍ばせている古い手巾に衣越しに触れ、楸瑛は小さく嘆息した。


パチンと小さな音を鳴らし、紅色の扇が閉じられると彼女の動きもまた止まった。
しばし、物思いに耽るように伏せられた瞳が、ゆっくりと開く。そうして漸く楸瑛に気付いたらしい彼女は、「ひゃっ」と声を跳ね上がらせて驚いた。

「しゅ、楸瑛様?!ななななんでこんなところにこんな時間に?!」
「君が舞っているのが見えてね。引き寄せられてしまったんだよ。
 殿こそ、こんな時間にどうしたんだい?今は女官職に就いているのだから、妓楼で舞うこともないだろう」

尋ねると、は周囲をきょろきょろと見渡してから声を潜めて言った。

「…今度、霄様の陰謀で鴛洵様方の前で舞わなくちゃいけなくなったんですよっ。そんな自信ありません、って言ってもまったく聞く耳持たずで…仕方ないのでとちらないように練習してるんです」
「…毎晩かい?」
「毎晩です。もう、日数があまりないので」

彼女は自信がないというけれど、彼の舞に勝るものなどそうないのではないかと楸瑛は思った。立ち止まり、こうして話している姿を見る分にはどこにでもいそうなただの少女でありながら、ひとたび扇を翻し楽を身に纏えば世の全てが霞むほどの舞手となる。幾度もこの変貌振りを目にしている楸瑛でも、時折解からなくなるものだ。いったい、どちらが本当の彼女なのだろう、と。

「…あの、楸瑛様。不躾で申し訳ないのですけど、このことは…その、出来れば霄様には内密に…」
「わかっているよ。君が毎夜、室を抜け出しているなんて知ったら、霄太師は怒り狂いそうだからね」
「それはないと思いますけど、ねちねち嫌味を言われそうな気がしますので」

ほっと息を吐き、は扇を懐に仕舞った。居住まいを正すと楸瑛を正面から見据え、簡単な礼をとる。すでに労働時間外であるはずなのに、こうも自分に厳しい人間を楸瑛は自分以外に知らない。けれど彼女はそれでも自分とは違うのだということも、楸瑛は嫌になるほど知っていた。
同じではないが似ているところは山ほどある。それは、彼女本人も認めている。それなのに、彼女と楸瑛はあまりにも異なる。似通った境遇から導き出した答えが、正反対だったゆえに。

「…室まで送るよ。こんな夜中にひとりにさせるわけにはいかないからね」
「紳士ですね、楸瑛様。ジェントルマンは好かれますよ。あまり軟派が過ぎると嫌われますが」
「君は軽い男が嫌いかい?」
「少なくとも、楸瑛様のようなご自分を痛めつけるための軟派は好きではありませんね」

だから自分も嫌いなんですよ。
暗に含まれた苦言に楸瑛は苦笑し、傷つくことを躊躇わない小さな手を引いた。
霄太師のお蔭というのが癪に障るが、これからしばらくは楽しい夜が過ごせそうだと微笑むと、ご冗談をと彼女は言った。



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