肩書きは友人

それは、彼女が九歳になった年の晩秋のことだった。


「すんません。ここって黒燿世っつー人の家であってますかー」

呼びかけられた門番は、声のした方に振り返った途端訝しげに顔を顰めた。
門番が勤める家の主は、武官の中でも出世頭として有名な「黒燿世」だ。彼を尋ねて名のある武人や朝廷に関わる著名人が訪れることは間々ある。無論、大抵は事前に連絡のあることが常だが、たまにこうして突然訪問者が現れることも、ないわけではなかった。仕えている主人が"主人"であるだけに、いわゆる「珍事」にも人並み以上に慣れていることは自他共に認めている。が、どんなに優秀な門番にとっても、今回のようなことは想定外の更に外の「珍事」だった。

そこに立っていたのは、自分の胸にも届かない背丈の少女だったのである。

「なんだ小娘。燿世様になんの用だ」

下町の出にしては、身形の良い子どもだった。背にかかる黒髪は乱暴にまとめられているものの、手入れが行き届いていることがわかるし、服装だって簡素ではあるが質が良い。
上から下まで値踏みするように門番が眺めていると、揚々とした声が鳴った。

「お!さっすが私の方向感覚。絳攸にも分けてあげたいくらいだね。
 んじゃ、失礼して…

 たのもーーーー!!」


その時の彼女の奇行を目の前で見ていた門番は、彼女と親しくなった後に「俺はお嬢が実は白雷炎様の隠し子か、貴陽にまで出没する根性を持ち合わせた妖で、もう彩雲国は終わりかと思った」と泪ながらに語る。

邸の中でその声を聞いた黒燿世が門に辿りつくまで、門番は固まったまま二の句を告げなかったほどだ。その間、大凡二分半(少女の時計より)


「なななななにを言うんだ、お前!」

なんとか自力で覚醒した門番は、大慌てで周囲を見渡した。こんな道の往来であんなことを言われては(しかもこんな子どもに)、主人の名に傷が付く。と、考えたわけではなく、単に興味を持ってしまった主人(もしくは主人の知人、もとい喧嘩仲間である人物)が現れはしないかという不安に苛まれた為であった。

が、時すでに遅し。

自身のすぐ後ろに、気配なく立つ主人を見つけ、門番の儚き望みは消え去った。
門番同様、現れた黒燿世に気付いた少女は、「らっきー」と理解不能な単語を口にして声を弾ませる。

「あんたが黒燿世さん?」
「も、申し訳ありません、燿世様!今すぐ追い返しますので!」
「なあ、あんた貴陽で一、二を争うくらい強いんだってな。だったら弟子にしてくれ!」
「小娘!おおおお前なにを馬鹿な」
「って、こんな言い方じゃダメだよな」

予測不能な展開に、どんなに珍事に慣れようとも矢張り一般人であった門番は自分の思考回路が限界に達し、焼ききれる音を聞いた気がした。
仕える主人が何かに興味をもって、静かにことが運んだ例がない。それは、黒燿世と白雷炎の"じゃれ合い"(と書いて死闘と読む。しかも被害は周囲にも及ぶ)を見れば明らかだ。
しかも、今回はそれを遥かに越える事態にことが運んでしまいそうだ。外れてくれと願いつつも、九割方当たるであろう嫌な予感を門番は感じた。

ぐるぐると思考を巡らす門番を気にも止めず、乱れた服装をピシッと整えた少女は、指先まで完璧に仕上がった礼をとり頭を垂れる。

「自分は李と言います。黒燿世殿に弟子入りしたく、参りました。お願いします、自分を鍛えてください!」

通る声は未だ幼さ残るものではあったが、その言葉に迷いや淀みはなく、燿世の許諾を待ってあげられた顔には決意を秘めた瞳が光っていた。
問うことに、意味などないとどこかで思いつつも、燿世は尋ねた。

「………何故」
「強くなりたいってことに、理由が必要っすか?私は自分が弱いって解かってる。だから、強くなりたい」

燿世の脇で、つい先ほどまでを子どもとしてしか見ていなかった門番の見る目が変わる。
小さく息を吸い、目蓋を閉じて数拍。
再びを見据えた燿世は、無言のまま彼女を邸の中へと招いた。





「――――― で、そのあと師匠に四十時間、じゃなかった。二十刻耐久写経レースを命じられ見事乗り切り、無事弟子入りを許可して頂いた、ってわけですね」

以上です、とまったく興味なさそうに自らの過去を話し終えたは、少し冷めてしまったお茶を口に運んだ。
彼女の前で話を聞いていた楸瑛は、昔語りを乞うた身でありながら聞いてしまったことを後悔せずにはいられなかった。

今から九年も前。まだ九つだった少女。
ついでにそんな少女を弟子にとった自分の上司。

言葉として正しくはないが、「頭痛が痛い」とはまさにことのこだろうと楸瑛は思った。頭が痛い、で足りるものではない。

「…そ、その二十刻耐久写経れーす…というのは」
「まんまですよ。師匠が良いっていうまで、延々書経を書き写してたんです。正直、身体能力見せろ!とか言われたらどうしよーかなーって思ってたんで、逆に助かったと思いましたねー」
「二十刻、延々かい?」
「延々です。さすがに途中でお腹減ったり手洗いに行きたくなったりはしましたけど、まあその辺は根性で。何が一番きつかったって、師匠に監視役命じられた家の人がみんな必死にやめさせようとしてきたことですかねぇ。『悪いこたぁ言わないお嬢ちゃん今ならまだ間に合う変な考えは棄てなさい身寄りがないなら世話だってしてやるから』なんて泪ながらに言われたときには返答に困りましたよー」

その時の家人の気持ちが楸瑛には痛い位に良く解かった。むしろ今からでも遅くない、諦めろと声を大にして言いたい。

黒燿世宅の家人はまだ良い。身を案じた幼い少女が規格外で、燿世にも劣らぬ素材であるがゆえの問題はあっても、危惧していた最悪の事態(平たく言えば主人が幼児殺しになることである)は起こらなかったのだから。今となっては笑い話とでもなるだろう。

(こちらは…笑い話にならないけどね)

現在進行形で多大なる問題を抱えている楸瑛の苦笑に気付いたが、可愛らしく小首を傾げる。
たとえ黒大将軍の一番弟子でも、楸瑛と手合わせして二本に一本はしっかり取る腕前の持ち主でも、はまだ十八歳の少女だ。内面に似合わず可愛らしい容姿の所為か、そうした仕草が良く似合う。微笑めば、可憐な華が咲くように愛らしいことも、楸瑛は知っている。

「…絳攸も、その話は知っているのかい?」
「さあ、どうでしょう。親父殿は当然知ってると思いますけど、絳攸には聞かれてないので話してませんから」

だからこそ、彼はいつも苛々しながら義妹のことを考えているのだろう。彼女との邂逅を済まして以来、何かと釘を差してくる友人のことを思い浮かべ、楸瑛は小さく息を吐いた。

「…ちなみに、こちらのことは?」

ぺらり。薄い紙が一枚、卓子の上に置かれる。

「話してませんねー多分、明日当たりにでも楸瑛さんと主上が話してるのを聞いて発覚!ってところでしょうかねぇ」
「まったく…相変わらず君は、私をいいように使ってくれるね。確信犯かい?」
「どーでしょう。楸瑛さんのご想像にお任せしますよ」

用紙に記されたのは、次回より試験的に導入が決定された国試の女人登用に先立ち行われる、国武試の参加願。後見の名は黒燿世、そして受験者の名は ――――

「君が国武試唯一の女人受験者になると知ったら、絳攸はどうするだろうねぇ」
「とりあえず、近くにいる主上と楸瑛さんに八つ当たりでもするんじゃないですかね。さすがに吏部では無理ですから。『鉄壁の理性』なんて厄介なもの、掲げちゃってますからねーいやーいつもいつも申し訳ないです」
「…君、少しも思ってないだろう」
「あはは。実はちっとも」
「…女性の盾となれるのなら、私は構わないけれどね」

それに、自分よりも被害を受けるのは「国試の女人登用を認めるのなら当然国武試も認めるべき、共に女人の受験者があってこそ検討に値する」という古株官吏の屁理屈を覆せなかった国一番の権力者の方だろう。
同じく朝議に出席していた某尚書二人が反対しなかったために(ちなみにどちらも国武試を受験する女人がいることを確信していたと思われる)通ってしまった、筋も理屈も通っていない意見の所為で国武試の女人登用まで認められてしまったのだ。でなければ、彼女の国武試受験もあと数年は引き延ばせたであろうに。

「だいじょーぶですよ、楸瑛さん。なんだかんだ言って、絳攸は認めてくれてますから」
「とてもそうは見えないね」
「本気で反対してたら、今日だって楸瑛さんのお宅訪問なんて出来てませんよ。素直に認めたくないから文句言いますけど、ああ見えて絳攸、私に対して一度も『やめろ』って言ったことないんですよー」

過度の心配性ではありますけどね。
ほんのわずかに眉尻を下げ、は微笑む。
こんな態度を時折取られてしまうから、楸瑛の友人であり彼女の義兄でもある彼は本気で反対することができないのだろう。

(まったく…仲の良さもここまでくると問題だな)

嘘も嫌味も妬みもなく、素直に思う。彼らほどに互いを想いあい、背中を合わせてしまっているふたりを楸瑛は知らない。



「さーて。用事も済んだし、私そろそろお暇しますね」
「なんだい、もう帰るのかい?夕餉くらいご馳走するよ」
「いやー藍家四男宅のお夕飯!ってのも心惹かれるものはあるんですけどねー実は親父殿に人質ならぬ物質を取られてまして。一刻半以内に帰らなかったら"明日麻"折られちゃうんですよ」
「…………それ、紅尚書が言ったのかい?」
「百合様もご一緒に。さすがに嫁入り前の身ですから。そこそこ心配はしてくれてるみたいですねぇ」

ちなみに"明日麻"と言うのは、の師である黒燿世自ら選別し彼女に贈った剣の名である。黒燿世に剣を贈られるなど、滅多にあることではない。その珍事からも、彼女への嘱望と愛着が窺い知れるというものだろう。

「…確信は持てませんけど」

椅子から立ち上がったは、しゃんと背筋を伸ばした姿で楸瑛を見る。
真っ直ぐな瞳に籠もった光を、この数年で楸瑛は何度も目の当たりにしてきた。秀麗といいといい、女性という生物は自分ら男以上に強いのだと、その度に思い知らされる。

「来年からは、もっと尊敬の眼差しで貴方を見れるようにしないといけませんね」
「熱い視線は嬉しいけれど、女性になら親しみを持って接してもらえる方がありがたいな。それに君、私のことをそんな眼で見れるのかい?」
「出来ないからこそ努力するんですよ。なんと言っても、楸瑛さんは藍"将軍"なわけですから」
「…君が部下になるのか。それはまた、なんというか…」

羽林軍が賑やかになりそうだな、色んな意味で。
心中呟いた言葉を察したのか、は曖昧に笑ってそうですねと頷く。
それから、後に続いて立ちあがろうと楸瑛が腰を浮かした瞬間に、前触れもなくぽつりと零した。


「貴方の部下になれるのなら、私も喜んで尽力しますよ」


卓子に手を置いたまま、不覚にも固まった楸瑛を一瞥したは「それでは」と礼をして室を出ていった。
ひとり、取り残された楸瑛は彼女の気配が完全に遠ざかったあとで、ぐったり疲れたと言わんばかりの勢いで再び椅子に腰を落とす。卓子に突っ伏さなかった自分の理性と矜持に今ばかりは感謝したい。

「…まったく。本当に面白くしてくれそうだよ、君は」

羽林軍も、そのほかも。
零す相手のいない痴言を嘆息と一緒に大きく吐き出した楸瑛は、ふと眼に入った用紙を指先で弾いた。
ひらりと舞い上がった紙は、緩やかな波を描きながら床に落ちる。
さて、実際に落ちたのはいったいなんだろう。
明日にでも真っ先に落ちてくるであろう友人の雷を思い浮かべ、誰もいない室で楸瑛はどこか楽しげに一笑した。




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