理非曲直の勿忘草



しんと静まり返った冬の朝、まだ位置の低い太陽の陽に照らされた白い雪の庭院に片膝をついて流珠は大きく息を吸った。
緑色の茎を手のひらでしっかりと握り、ぐっと腰から力をこめる。腕ばかりにかまけていると、土の中に残ったまま途中でぽきりと折れてしまいかねない。力加減が何よりも大切だ。未だ収穫に慣れていなかった数年前まではこの力加減が理解できず、耳の奥に残る嫌な音を何度聞いたか数知れない。もちろん土の中に残った根の半分もちゃんと堀出し綺麗に洗って食したが、やはり最後の最後で失敗してしまうと気が落ち込むし、銭にも換えられなくなるので踏んだり蹴ったり良い事無しだ。
今でこそ、そうした失態を冒すことも少なくはなったが、それでも収穫の瞬間は緊張が消えない。空気の冷たさを無視して頬を伝う汗に気を盗られぬよう手の中のそれにだけ神経を集中させて上体を反らせば、初めのうちは引っ張られるだけだった茎にかかる力が緩み、すっと軽い感触が伝わってくる。抜ける。手の位置を拳一つ分根元へとずらして、流珠は腰を浮かせた。

「…ふぅ」

白い吐息を漏らした流珠の手の中には、丸々と太った蘿蔔(すずしろ)が泥の合間から白く美しい肢体を覗かせている。出来栄えを一瞥し流珠は小さく頷くと、足元の新雪で泥を落とし畑の脇に積みあがった仲間の上に丁寧に重ねた。

「これで…終わりか」
「朝から精が出ますね」
「っ、悠舜さん!」

突然の声に慌てて振り返れば、すぐ傍の回廊に杖を手に持った男の姿があった。お世辞にも少ないとは言えない量の雪を気にも留めず、流珠は平地であるかのように軽やかに彼の元へと近づく。いつもの事ながら、大したものだと悠舜は思った。農作物の育て方もそうだが、流珠が身に付けている技量の数々は紅家の人間が持つべきものとは一線を画しているものが多いように思えた。もっと具体的に言えば、とある人物(月に二桁は「今日の流珠の様子を教えろ!」との文を匿名で届けてくる某尚書、とも言い換えられる)の親類とはどうしても思えない。彼らに共通点があるとすれば、髪の色と目の色と、我が道を譲らないところくらいだろうか。程度の違いに目を瞑れば。

「おはようございます、ではなさそうですね。悠舜さん」

近づいてみれば、悠舜の顔が先ほど収穫した蘿蔔や庭院に敷き詰められた雪と近しい色をしていることに気付いた。今日も今日とてこの人は、相も変わらず激務に追われているのか。昨夕から今朝までの護衛を燕青に任せたのは間違いだったようだ、と眼の下の隈を見つめながら流珠はこの場に居ない人物にため息を吐く。
けれど当の本人は、さして問題がないとでもいうように軽く笑ってみせた。

「おや、ばれてしまいましたか」
「そんな顔色をしていれば、誰だって気付きますよ」
「休もうとは思っていたのですが…あと二月で貴方が居なくなってしまうと考えると、今のうちに済ませておきたいことが次から次へと浮かんできてしまいましてね。どうにも仕事が減らないんですよ」

返された言葉に、流珠はぐっと息を呑み込んだ。まったく、先に小言を言ったのは自分だったはずなのにこうもあっさり形勢を返されてしまうとは。さすがは怪しい叔父の友人を務められているだけはあるな。出逢ってから何度目かわからない悠舜への感心が、流珠の頭に浮かんだ。

「と、言ったところで貴方は出立を考え改めてはくれないのでしょうね」
「…すみません」

歯切れ悪く、意味も為さない謝罪を言葉だけで告げれば、彼はにこりと目元を緩めて微笑んだ。こうした悠舜の表情が流珠は嫌いではなかった。その裏にいったいどれだけの謀略があるのかは解からない。おそらく流珠が思いつく数の数倍近いものが秘められているのだろう。それが解からない流珠ではなかったが、産まれた頃から似たような微笑を何度も何度も見ていた所為か、胡散臭い裏のある表情に懐かしみすら感じてしまうのだ。同じではない。けれど、似ていることを否定することはできない。だから、流珠は悠舜の笑った顔が好きではないが、嫌いではなかった。その微笑みのままどんな厭味を言われようとも、些細なことと笑い飛ばしてしまえるくらいに。

「寂しくなりますね。貴方には本当にお世話になっていますから」
「何を言うんですか、悠舜さん。お世話になっているのはぼくの方ですよ。…それに、名ばかりの護衛が一人いなくなったところで、茶州のこれからは変わりませんよ」
「そうでしょうか。少なくとも、私たちは淋しいと思いますよ。庭院の畑も、収穫が終わってしまったのでしょう?春になっても貴方の作る野菜が食べられないと知れば、燕青などは山ほど文句をいいそうです」
「…そう、ですかね」

意図的に出された名だと解かっているのに、どうして感情はこうも簡単に思惑を裏切ってしまうのだろう。たった一人の男の名に、大きく脈打った自身の臓器に表しようのない苛立ちを流珠は覚えた。
浪、燕青。
頭の中でその名を紡げば、いとも簡単に彼の顔が浮かんでくる。その殆どが自分に向かって笑っているから、どうしても流珠は居た堪れなくなってしまうのだ。その笑顔は、今目前にいる鄭悠舜のそれとも、自分のそれともまったく違った。裏が、嘘が無いわけではないのだろう。けれどそれら全てを糧として包み込み、真っ直ぐに魅せられる何かが燕青の笑顔にはあるように流珠には思えた。

だから、彼にだけは知られるわけにはいかないのだ。
悠舜に気付かれぬように奥歯を噛み締め、流珠は心の内で再び誓った。

「…燕青には、言わないつもりなのですか?」

まるで先の流珠の謝罪をなぞったように、歯切れの悪い問いかけだった。隠すことのない戸惑いと躊躇い。それらを感じ取りながら、流珠ははっきりと頷いた。

「他の方にも、そう頼むつもりです」
「『燕青にはこのことを黙っていてほしい』と?」
「はい。…それが、燕青にとって最善だと、ぼくは思います」

嘘だ、と内心自嘲しながら悠舜から視線を外す。嘘を吐く時、男は視線を逸らし女は視線を合わすという説があるらしいが、今の自分の行動はそのどちらに当てはまるのだろう。男として振舞う「紅流珠」の嘘なのか、それとも「」の真実なのか。
逸らした視線の先には自分の足跡が残る白い庭院が広がっていた。春になって雪が溶けるころ、燕青と共に鍬を手に取り庭院を耕した記憶が不意に過ぎる。また今年も、同じ光景を彼は描いているのだろうか。昼の休憩時間、東屋に腰掛け穏やかにこちらを眺める悠舜や同僚たちのいる空間。去年、一昨年と当たり前に流れていた時間。

一方的にそれを裏切る流珠を ―――――― 彼は、許せるだろうか。

一度浮かんでしまった疑惑は、流行病のようにあっという間に流珠の中で育ち増えた。他の誰に罵られても構わなかった。けれど、流珠には耐えられなかった。自分が持つことのできない笑顔を持った彼の、澄んだ表情が凍りつく瞬間を想像するだけで視界が揺れた。
だから流珠は嘘を吐いてでも、守ろうとした。燕青をではなく、ただ自分自身を。この茶州で別れたところでいずれ貴陽で再会すると「」は知っているくせに、少しでも絶望を先延ばしする、ただそれだけのために。「燕青はなんのしがらみもないぼくが出ていくのを寂しがるかもしれない」なんてほんの少しだけの真実を織り交ぜた偽物を掲げて。

「なんて言ってみたところで、実際には面倒ごとを悠舜さんたちに丸投げしているだけなんですけどね」

軽い調子で笑って、流珠は再び悠舜の方を向いた。
柔和な表情からは彼が自分に対し、いったいどんな感情を抱いているのか読み取ることは流珠には出来なかった。「」として換算すれば大して過ごしてきた年月に違いがあるわけでもないのに、彼の方が一枚も二枚も上手だ。その所為か、何時でも悠舜は自分を極端に甘やかしてくれているように流珠には思えた。
今この時も、そうだ。
悠舜は卑怯で利己的な「紅流珠」を責めることもせず、杖を持たない方の手で優しく流珠の頭を撫でた。

「悠舜さん、」
「まだ、もう少し先のことではありますが…道中は十分に気をつけて」
「…ありがとうございます」

優しさが凶器に成り得ることを、「」は「紅流珠」の生を経て初めて知った。「紅流珠」として産まれた瞬間から汚れた流珠に、この城の人たちはみんな優しい。けれど、それ故に流珠は傷つくのだ。

柔らかく触れる手のひらを振り払うことなど出来るわけもなく、流珠は目の高さにある悠舜の服だけをじっと見つめた。
間も無く、冷たい朝の静寂を消し去るように、遠くから「彼」の声が聞こえてくる。どうやら悠舜もそれに気付いたらしく、頭に乗せられた手のひらがゆっくりと遠のいていった。

(…ごめんなさい、悠舜さん)

誰にも聞こえぬように言葉にした謝辞は、悠舜の手が離れたことに安堵してしまったことへだけ向けられた訳ではなかった。
たとえば蘿蔔の根を引き抜くような緊張感を常に持って悠舜の上司にこれから相対するような、偽りだらけの護衛でしかいられないことこそ、流珠は懺悔したかった。

後悔はない。けれど、罪悪感は決して消えない。

未だ悠舜の表情を窺うことが出来ぬまま、流珠はまたひとつ嘘を重ねる。
先よりも大きくなった声の主を迎えるためにいつも通りの心を造り上げて、流珠は何ひとつ変わらぬ顔で笑った。