契りは金蘭か鴛鴦か



ざくざく、ざくざくと一定の間隔で土を耕す音に、静蘭は春の穏やかな気候でありながら真夏さながらの目眩を感じずにはいられなかった。
いったいこれで何種類目の作物だ。突っ込めば、的確な数字と庭院の何割を使用しているのかという報告が飛んでくることだろう。それくらい、当の本人は畑とそこになる作物を愛して止まない。それこそ、ひとつひとつに名前を付けて愛で初めかねないほど、大切に大切に紅家の長子は野菜やら果物やらを育てていた。
しかし、いくら愛していようとも、畑の増耕には限度あり。意を決し、静蘭は颯爽と汗を拭う流珠のもとへ足を運んだ。

「いったい、今度は何を育てられるおつもりですか、おぼっちゃま」
「ああ、静蘭。今度は甘藍に挑戦してみようと思って」
「…前回大根の畑を拡大された時に私が言ったことを憶えておいでですか?」
「なんだっけ?」
「おぼっちゃま!」
「うそうそ、冗談。『おぼっちゃまは邸の庭院で本格農業でもはじめられるおつもりですか?これ以上増えては一家総出で面倒みなければならなくなりますからいい加減抑えてください』だったよね」
「憶えていらっしゃるのでしたら是非実行に移してください」
「それよりさ、静蘭。ぼく、ずっと静蘭に言おう言おうと思ってたことがあるんだ」

全くもって上手くはないが、どうやら話をすり替えようとしているらしい。静蘭からすればこんな子供紛いの手に引っかかる方がどうかしている、と言っても可笑しくない位のやり方ではあったが、ここはひとつ流珠の話に乗ることに決めた。滅多に他人に頼みごとをしない(やりたいことがあっても頼む前に実行に移してしまう所為だ)流珠が言おうと思っていることに興味が湧いたのである。

「珍しいですね、改まって」
「そうかな。静蘭には色々頼みごとしてると思うけど」
「そうですね。自分は大丈夫だからお嬢様をよろしくですとか、旦那様をよろしく、といった類の頼みごとでしたら幾度かお伺いした記憶があります」
「…今回は、ぼく個人のことだよ」
「それは楽しみですね」

静蘭が仕える紅家の長子紅流珠は、幼い頃から自らを制する術を知った子供だった。というよりも、甘えることが苦手だったのかもしれない。すでに亡き彼の母親に対しては感情のままに甘えている節も見えたが、それも姉である秀麗が体調を崩したりすれば駄々を捏ねることなくすぐに身を引いた。自身が年下とはいえ男で、いつか姉を守らねばならぬのだとでも思っていたのだろうか。母亡き後、それまで泣き虫だった彼の泪を、静蘭は終ぞ見たことがない。まだ、七つにも届いていないというのに。

「大したことじゃないんだけど…ぼくのこと、"おぼっちゃま"って呼ぶの変えてくれないかな」
「…お嫌、だったんですか?」
「だってぼく、もう六歳だよ?それに姉さんならまだしも、ぼくはおぼっちゃまなんて柄でもないし」
「私からすれば、お嬢様はいくつになられてもお嬢様ですし、おぼっちゃまも同様ですよ」

返せば、流珠は鍬を地面に立てて困ったように頬を掻いた。そうでなくとも賢い少年だ。口で自分に勝とうなど、露ほども考えてはいないだろうがそれでもどうにかしたいらしい。
たかが呼び方ではあるが、されど呼び方であることは静蘭にも解かっている。自分の名がある色に連なるものから静蘭に変わらなければ、得られなかったものがあることを知っているからだ。加えて流珠に限って言えば、彼は他人を呼ぶとき、もしくは呼ばれるときの呼称を非常に気にしている節がある。数年前奥方が亡くなられ、静蘭と邵可が我に返ったあの日を境に、流珠は「とうさま」から「父さん」に、「ねえさま」から「姉さん」に呼び方を変えた。まるで、区切りをつけるように。何にと問われても、流珠に直接尋ねたことのない静蘭にはわからない。けれど、憶測は出来た。彼があの日を境に切り捨てたものがいったいなんなのか。本来ならば、未だに持っていることが当たり前の感情と立場を、流珠は躊躇うことなく手放したのだ。

「別に…心底嫌、ってわけじゃないんだ。けど…やっぱりぼくには似合わないと思うし、不釣合いだと思うんだよ」

六つでありながらすでに庭の面積半分を越えた畑をひとりで面倒見、自分ではなく父と姉ばかり気にする貴方の方がよっぽど外見と不似合いですよ。
静蘭は、喉から飛び出しかかった本音をなんとか飲み込んだ。いくら不似合いとは言え、相手は紅家直系の人間で、しかも自ら守られる子供であることを当の昔に棄てた少年だ。これくらいの異端は合って当然なのだろう。信じるには、中々抵抗もあるが。

「おぼっちゃま、それは謙遜が過ぎると言うものです。おぼっちゃまは紅家直系筋のお生まれなのですよ?本来ならば」

紅家の時期宗主となられても可笑しくない身位なのですよ、と続くはずだった言葉は、あまりに必死で肯定する流珠の声に遮られる。

「わかってる、わかってるよ静蘭。でも、だから嫌なんだ」
「…お認めに、なりたくないのですか?」
「違、わないかな。
 確かにぼくは紅家直系しかも長子である父さんの息子なのかもしれないけど、今の生活で満足してしまっているぼくに、その後ろ盾は大きすぎるよ」

あまりの重さに潰されて、動けなくなってしまうくらい。
俯きながら、流珠は鍬の柄をきつく握った。くだらない、冗談でも言った後のように笑えと必死に命じても、流珠は笑うことが出来なかった。怖かったのだ。母に乞われ男として生きることを決めたときには、こんなことになるなどと欠片も考えていなかった。愚かだった。「紅邵可」が紅家の長子であることを「」は知っていたはずなのに。そして、邵可の息子という立場がいずれ、どういう可能性を持つことになるのかも少し考えればわかったはずなのに。

流珠の心の葛藤を聞かずとも、静蘭には彼の考えていることがよく解かった。何度も繰り返すようではあるが、六つの少年が悩むには早すぎる難題に、彼は直面しているらしい。しかもその難題は、彼が全てを棄てるか立ち向かうかの二択しか答えがないときている。

(そうだ。私のように棄てるか、それとも)

本気で棄てようとすれば、きっと流珠はすべてを失うのだろう。彼が今満足している生活も、何もかも。だから、どんなに嫌でも彼には「紅流珠」の名を棄てることができないのだ。いずれ、受け入れねばならぬ日が来る来ないに限らずとも。

まったく、と静蘭は大きく息を吐いた。
本当にどうしてまったく、この少年はこんなにも自身に厳しすぎるのだろう。

「大丈夫ですよ、流珠様」
「え…静蘭?」
「流珠様がそうなられると、決まったわけではありません。なにより、旦那様はすでに紅家を出られておいでです。現当主で在らせられる方にお子があれば、流珠様に白羽の矢が立つことなどありえません」

実は現当主である邵可の弟には子をつくるつもりがないらしく、今は李姓を与えられた養い子(男)がひとりいる限りなので、流珠にお鉢が廻ってくる可能性は否定できない。という現状を小耳にはさみ知っていた静蘭だったが、口が裂けても言えない。告げてしまえば、おそらく彼はもっと大きな仕切りを作って、自分と他とを切り分けるだろう。それは、流珠にとっても家族にとっても ―― また、静蘭にとっても ―― あまりに哀しすぎる。

「そう…だね」

納得した、とは言いきれない表情ではあったが、徐に流珠は顔をあげふわりと笑った。

「ありがとう、静蘭。ぼくが、考えすぎていたみたいだ」
「納得していただけたようで安心いたしました」
「さすが静蘭だね。ぼく、静蘭と父さんにだけは、何があっても絶対に敵わないと思うよ」
「そんなことはありませんよ、流珠様。現に今、折れてしまったのは私の方ですから」
「はははっ、確かにそうだね。ほんと、静蘭には敵わないや」

本当は、他にも多々言いたいことはあったのだけれど、腹の底から嬉しそうに笑う流珠を見て静蘭はそれ以上なにも口に出来なかった。まったくどうして、この邸の人間には敵わない。そう言いたいのは、静蘭の方だ。

(結局、話を逸らされてしまったな)

けれどそれが不愉快でないから性質が悪い。
燦々と降る春の日差しの下で、静蘭はもう何度目かも解からないため息を流珠に対して零した。



その年の夏。
邵可邸の食卓には、甘く育った甘藍が毎日のように顔を見せるのであった。



※静蘭は流珠が女であることを知りません。
 彼の目を誤魔化せるとは…流珠はかなりの演技派ですね。