もう一度手を伸ばした地平線
パン、という乾いた音が広々とした青空に吸い込まれて消えた。
正直聞いていられなくなって、音にならないよう溜め息を吐いてしまったのは仕方のないことだと思う。ああ、なんだってこんなに天気の良い日に、私は人が平手打ちされる現場に居合わせなければならないんだろう。
それもこれも、全部昼休みに届いた幼馴染からのメールのせいだ。放課後、屋上のタンク裏まで来て、という簡潔な文章に首を傾げはしたものの、幼いころから真面目を絵に描いたような幼馴染の言葉だ。まあ、特段の予定もないし良いかな、と安易に「わかった」なんて返事をしてしまったことがすべての間違いだった。今日からあいつに対する印象は、真面目に見えるけど性格の悪い豆腐マニアに決定だ。お前など、豆腐の角に頭をぶつけて泣いてしまえ。あ、それだと、いっそ喜んで泣いちゃったりして。現実的過ぎて笑えないところが辛い。
「……っ、馬鹿!!」
可愛らしい声音で発せられた在り来たりな罵声。それから、重なるように聞こえたバタバタという足音。きっと、見事な平手打ちを食らわした側の彼女が屋上から立ち去った音だ。
日常的に聞くはずの言葉なのに、彼女の口から飛び出た「馬鹿」には、逃げるよう去った彼女の感情のすべてが籠められているように聞こえた。相手に対する憤りとか、恨みだけじゃない、なにか。信じきれないけれど、突きつけられてしまった突然の現実に心が追い付いていかなくて、でも覆すこともできなくて、とにかくこの場から逃げ去りたくて、消えてしまいたくて。
たった二文字の言葉でも、いろんなことが伝わるんだなあ。
耳の奥にまだ残る彼女の声に思い馳せながら、ぼんやりと空を見上げる。あ、あの雲、真っ白くておぼろ豆腐みたい。確実に幼馴染に浸食されつつある思考に、ちょっと空しくはなったけれど、豆腐が美味しいのは事実。今日の夕飯は豆腐のあんかけにしよう。スーパーで豆腐の安売りしてたら、いいな。
「今、何を考えてる?」
これで豆腐のこと、って言ったらこいつはどんな顔をするんだろう。開きかけた口を一度閉じて、結局やめた。だって、喜ばれるのは目に見えているから。
屋上の階段裏にしゃがみ込んでいた私を覗き込んできたのは、つい先ほどまで、修羅場を繰り広げていた二人の片割れだ。ちなみに、名前を久々知兵助という。家が近所という根っからの幼馴染で、私をこの状況に追い込んだ張本人。そして、赤く腫れた左頬をしていることからも分かるとおり、平手打ちと罵声を食らったご本人だ。
「今日の夕飯について、かな」
「は相変わらずだな。じゃあ、その前は?」
「言葉ってすごいなーと」
「はははっ、確かにそうだ」
兵助は痛そうな頬を緩めて爽やかに笑うと、よっこいせと私の右隣に腰を下ろす。大して身体が重いわけでもないくせに、白々しい。
この時間、日陰になっているこの場所からは、眩しいはずの晴れた空も目を細めることなく見上げることができる。体育座りで空を見上げる私と、胡坐をかいてコンクリートを見下ろす兵助。もしかして、こいつでも少しくらい落ち込んでいるんだろうか。修羅場の内容を思い返せば、万が一にもそんなことはなさそうだけれど、言葉ってすごいものだし。ついさっき、それを実感したばかりだし。もしかしたら、億が一にも、兵助が落ち込む原因があるのかもしれない。
「兵助さんや、とりあえず三つほど聞いてもいいかな」
「もちろん、どうぞ」
「なんで、あんなこと言ったの?」
美男美女のカップルというのは本当に存在するもので、私が通う学校のそれが、兵助と彼女だった。小さいころから一緒にいる私からすれば、兵助が美男?と鼻で笑った時期もあったが、とりあえず大多数の評価として、彼らは非の打ちどころのない恋人同士だった。すでに過去形なのが哀しいところだけど。
兵助の親友から聞いた話では、彼らが付き合い始めたのは四か月くらい前だったとか。大して興味もなかったけれど、「兵助たち、付き合って三か月経ったんだってさー」とか、「昨日、デートしてたらしいよ」とか逐一報告されていれば、意識せずとも頭に残ってしまうものだ。いったい何がしたかったんだ、あいつ。
まあ、そんな仲良き二人だったからこそ、私には意味が分からなかった。
どうして理想を地で行く彼氏が、彼女に対して「別れよう。最初から、好きじゃなかったんだ」なんて台詞を告げなきゃいけなかったのか。
「言葉のままだけど」
「いやいやいや、いろいろ可笑しいから」
「まあ、あえて理由をつけるなら、全然意味がなかったから、かな」
「なんじゃ、そりゃ」
今日はいい天気ですね、とでも言うくらい自然な流れで兵助は言うけど、私には意味がさっぱりだ。あれですか、阿呆にはわからないだろうけど、とでも言う気ですか。うわ、想像しただけで腹が立ってきた。どうせ私は成績も容姿も中の中、平凡な女子高生ですよ。
「顔、すごいことになってるのだ」
「誰のせいだとお思いで?」
「俺だろ。やっぱり、全部意味がなかったんだな」
「ええ、ええ、よくわかりましたまったく説明する気がないことがよーくわかりましたとも!」
「そんなことないって。ほら、残りの二つも答えるよ」
すごい顔ってどんなだよ、と突っ込みたいところではあったが、確実にダメージを受けるのは私だからやめた。私だって、そんな自虐趣味は持ち合わせはいないのだ。
でも、最初から好きじゃなかったなら、なんでお付き合いなんてしたんだろう。四か月は、短い期間じゃない。長くもないけど、好きでもない相手と一緒の時間を共有するには、きっと長い。私だったら、好きでもない相手と遊びに行くのだって、正直面倒だ。まあ、そもそもお付き合い自体したことがないから、好きじゃなくても付き合えるものなのかもしれないけど。
「ねえ、それ、痛い?」
「まあ、ほどほどに。でも、叩きなれてないみたいだから、そんなには。たぶん、に引っ叩かれる方がキツイな」
「そこは比較するな」
「ごめんごめん。ま、月並みだけど俺より彼女の方が痛いだろうから、痛み分けかな。いろいろ、さ」
「………兵助はさ、どうして彼女と付き合おうって思ったの?」
視線だけを動かして、兵助の横顔を盗み見る。美男だと認めたいわけじゃないが、大きな瞳を縁どるまつ毛は長く、憂い伏せる様子は、確かに美人にも見えなくはない。一つ上の学年にも超絶美人な男の(ここ、重要だ)先輩がいるけど、彼に勝るとも劣らないくらいには、整った顔をしているのだろう。
じっと見つめていると、赤く腫れた頬が少し緩んで、ふわりと長いまつ毛が上向いた。それから、ゆっくりと地面に向いていた黒目が動く。気が付いたら、お互いに瞳だけで、見つめ合っていた。…なんだこれ、恥ずいぞ。
「な、なにっ」
「いや、うん。まったく無駄、ってわけでもなかったのかと思ったらさ、ちょっと嬉しくて」
「私の質問のどこにそんな要素が!?」
ぎょっと身体を起こして兵助から距離を取る。いきなり嬉しいとか、訳がわからない。ついに頭の中まで豆腐になったか。いや、それは前からか。
はははっ、と今度こそ声をたてて笑い出した姿に、平手打ちを受けて実は頭にきちゃったんじゃないかと本気で不安になった。けれど、屋上に散らばった笑声は、ぴたりと止んだ。そして残されたのは、気味が悪いくらいに真剣な表情を浮かべた兵助の姿。自然な動きで伸ばされた手が、私の手首を握る。指先に籠められた力はゆるく、まるで、雲にでも触れているみたいだと、柄にもないことを考えてしまった。
「環境が変われば、関係が変わると思ったんだ」
「………はい?」
「だって、生まれてからこの方、俺のこと幼馴染以外の存在として見たことなかっただろ?」
「無類の豆腐好きだと思ってるけど」
「……それはそうだけど。そういうことじゃなくて」
もう、わかってるくせに。
口には出されなかったけれど、正面から向き合った視線が告げていた。そんなことが分かってしまうくらいには近かったのだ、私たちの関係は。そしてどうやら、問いかけを重ねなければ相手の真意が分からないくらいには、遠かったらしい。
「というわけで、これをきっかけに俺、本気出していこうと思うんだけど」
「ば、ば、ば、バカか、あんたは!!」
「あははっ、言葉って確かにすごいな。同じ言葉でも、全然伝わってくる意味が違うのだ」
ぎゅっと握られた手首が、さっきの彼女と同じ行動を許さないと言わんばかりに、強く引かれる。とりあえず、彼女と兵助の関係を知っている友人たちがいる、この学校に在学中には、絶対こいつには近づいてなるものか、と私は必死に踏ん張る足に力を込めるのだった。
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