まぶたの裏の微熱







「ヒバリ!」

低い苛立ちを含んだ声が雲雀を呼び止めたのは、グラウンドから聞こえる学生たちの声が一際大きくなったときだった。
おそらく何かしらの競技が終わったのだろう。学校行事のひとつとは言え、体育祭という名の下に無駄に草食動物たちが群れている場所にわざわざ向かう気にもなれず、雲雀は波立つ感情に忌々しさを抱きながら校舎内を見回っていた。
通常、体育祭の最中に生徒が校舎内に入ることは許されていない。何人か教室に残るいわゆるサボりの生徒もいたが、それらはすでに咬み殺し済みで雲雀に声をかけられるわけがなかった。
そもそも、この学校内に自分の名前をこんな挑戦的に呼ぶ人間がいたとは。足を止めた雲雀は、わずかに口の端を上げて振り返った。

「僕に何の用?」
「…お前に、言いたいことがある」

声の主の姿を捉えた瞬間、雲雀は自身の中の感情が再び大きく波打ったことに気付いた。
そういえば、今日は昨年の体育祭のときよりも苛立ちが大きいように思える。群れた獲物を咬み殺しても鬱憤が晴れることはなく、むしろ時間が経つにつれてだんだんと重さを増しているようにも感ぜられた。
そして、今。
雲雀の前に立った男 ―― 押切 ―― を眼にし、それは確かな形をもって雲雀の中で芽を葺いた。

「僕に言いたいこと?悪いけど、僕は誰かに命令されるのが死ぬほど嫌いなんだ」
「お前の見解を聞くつもりはない」
「ワオ。随分と強気だね。いいよ、言ってみたら?」
「…に、近づくな」

どくり。身体を巡る血液が、まるで沸騰したように熱を帯びていた。
目の前の男のことを雲雀は知っている。正確には、昨日の放課後に部下から受けた報告によって知ったのだが、雲雀にしては珍しく名前と顔を一度で覚えた相手でもあった。
ただし、それは良い意味でではなかった。


「恋愛ってよくわからないけど、あんな真剣な押切くんを相手に私が楽な道を選ぶわけにはいかないよ」


そう言って曖昧に笑った彼女は、雲雀のことを見てはいなかった。
それがなぜか、雲雀には妙に腹立たしく、未だに頭の隅に残っているのだ。
直後、彼女の視線は雲雀に戻ってはいたけれど。あの瞬間、ほんの数秒ではあったけれど、自分が目の前にいながらも彼女の中から雲雀を消した男。
気が付けば、雲雀の口元は笑うよりも歪にゆがんでいた。

「何それ。どういう意味」
「言葉のままだ。お前がを不用意に呼び出した所為で、は必要以上の注目を浴びている。の平穏を壊すな」
「噂の原因をつくった人間の言葉とは思えないね」
「…確かに俺は、自分のことしか考えずにに想いを伝えた。それが噂になったことも事実だ。だが、今はそれ以上にお前が昨日の放課後、図書室でと話していたことで在らぬ噂がたっているんだ」
「それを、が止めてとでも言ったの?」
は…そんなことは言わん。だが、ヒバリ。お前と関わることがにとってプラスになるわけがない」
「本人の意思も確認しないで言い切るなんて、随分傲慢だね」

募る苛立ちを体現するように、雲雀の手にはどこからともなく取り出されたトンファーが握られていた。雲雀が威嚇するように腕を振ると、窓から差し込む光を返して鈍い光を放つ。一歩、片足を引いた押切は、強張った表情のまま型を構えた。

「興味本位で、の生活の邪魔をするな」
「君にそんなことを命令される謂れはないよ。大体、それは君の勝手な言い分だ。文句があるなら、本人から聞くよ」
「…ああ、確かにそうだ。これは俺の勝手な一存だ。がどう思っているかも知りはしない。だが、」

ニヤリと引き結んだ唇を引き上げて、押切は心底満足げに笑った。


「惚れた女を俺の手で守りたい。お前に喧嘩を売る理由など、それで十分だ」


それを合図に廊下を蹴った押切の拳を軽く避け、雲雀は思い切りトンファーを振り下ろした。
数分後、傷ひとつない雲雀の足元に倒れた押切の顔は、雲雀の中のムカつきを倍増させるには十分すぎるほど、穏やかなものだった。




体育祭が終わったあとの応接室で、雲雀は柔らかなソファーに腰を下ろして自分の左手を凝視していた。
黒い学ランと白いワイシャツ。そこから生えた肌色の手首には、青い血管が腺を描いているだけで、特に何があるわけでもない。けれど、雲雀はじっとそれを見つめ、時折空いた右手の指で確かめるように触れた。
手首に当てられた三本の指が、確かに脈打つ自分の心音を伝えている。いつのまにか、雲雀の中で咲いていたはずの苛立ちは、根も残さずに消えていた。



無意識のうちに口から零れていたのは、ついさっきまでこの手首を掴んでいた少女の名前。
本当に、変な子だ。これまでに彼女と交わした、決して多いとは言えないやり取りを思い出し、雲雀は思った。今の雲雀にとって、は興味をそそられる対象として五指の中に入る存在となっていた。たいして強いわけでもなければ、雲雀に喧嘩を売ってきたわけでもない。彼女の様子を見る限り、自分に怯えていることは間違いないし、全力で逃げ出されたことだってあるくらいだ。

それなのに、はそれでも、雲雀の前に立っていた。

指でなぞる手首は、初めて彼女から雲雀に触れた場所。そう、雲雀は認識していたわけではなかったが、なぜか感触は今なおはっきりと残っていた。
雲雀のことを怖がっているくせに、信じられないような微笑で否定ではなく感謝の言葉を口にして、決して雲雀を拒絶しようとしない彼女の表情が、声が、姿が全て、鮮やかに目蓋の裏に浮かぶのだ。


「本当に…変な子だよ、君は」


誰にも聞かれることのなかった小さな呟きは、ソファーの弾性に吸われて跡形もなく消え去った。



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※押切くんの怪我の真相。