ずいぶんと日が落ちるのも早くなったなぁ。
もうすでにインディゴがオレンジを完全に追いやってしまったあとの空を見上げながら、部活を終えたばかりの山本武は思った。
中学で部活動を行なえる時間など高が知れていて、十月に入ると部活動の終了時間は今よりも一時間早くなるらしい。仕方がないとはわかっているが、それでも物足りなさはどうしたって感じてしまうのだ。来月からは家での素振りと走りこみ、それに筋トレを増やすか。頭の中でこれからのことを考えながら、校庭脇の水道に向かう。
勢いよくひねった蛇口から溢れでた水を頭から被ると、冷たさよりも先に爽快感が全身を駆け抜けた。やっぱ、部活のあとはこれだよな。短く切った髪に目いっぱいの水分を含ませ、頭を起こす。軽く振ると周囲に飛沫が飛び散って、傍らにいたチームメイトから「冷てぇよ!」と文句がとんだ。だが、彼だってこれから同じことを行なうのだ。山本は軽い調子で謝って、濡れた頭にタオルを被った。
「ん…?」
乱暴に髪の滴を拭っていると、視界の片隅にふと、昇降口を抜けるひとつの影が映った。どこかの文化部だろうか。自分の制服にはないひらひらと風になびく裾を気にもとめず、その人影は早足で正門の方へと向っていく。その姿をしばらく眺めていた山本は、不意に外灯に照らされた横顔に、思わず声を張り上げていた。
「おーい!!!」
名前を呼ぶと、人影はピタリと足を止めその場できょろきょろと首を動かす。面白ぇな、やっぱ。浮かんだ感情でゆるむ口元からは自然と笑みが零れる。
なおも声の主を探そうとしている少女に、山本は腕をあげて大きく振った。それにようやく気付いたらしい彼女は、動かしていた頭に急ブレーキをかけるように止めて、早足で山本のいる方へと近づいてきた。
「山本くんだったんだ。いきなり、名前呼ばれたからびっくりした」
「そーだったのか。わりぃな、呼び止めて」
「ううん、それは良いの。…山本くんは、部活あがり?」
「おう!は…部活、入ったのか?」
尋ねると、は暗闇でも分かるくらいに頬を紅潮させて「えっと」と躊躇うように言った。
「実は…図書室で本、読んでたら、こんな時間になってて」
「…そりゃ、すげぇな。てか、図書室ってこんな時間まで開いてんだな」
「ううん、普段は五時半までなんだけど…今日はたまたま担当だった先生が会議で、鍵を閉めにくるのが遅くなったんだって」
ちょっと、熱中しすぎちゃったみたい。照れくさそうに、は小さくはにかむ。釣られるように、山本も気付かぬうちに笑ってしまっていた。
すでに時刻は七時に近く、周囲は夕暮れと喩えるにはおこがましいほどの暗闇に包まれていて、とても「ちょっと」で済ませられるような時間ではなかった。それを彼女自身もわかっているせいなのだろう。隠し切れない羞恥心に追われるように、の視線はなかなか落ち着きを見せなかった。普段は、年上らしい落ち着きを持った、穏やかな女子なのに。彼女は時折、不思議なくらいの子どもらしさを見せるのだ。
初めて出逢ったのは突然訪ねた彼女の家の玄関で、ツナの背で微笑んだ彼女は空気のように透明な存在だった。毛を逆立てた猫のような獄寺を前にしても彼女の空気は決して揺らがず、するりと溶けるように自分たちの間に入ってきたのだ。割り入るわけでも、横に付いたわけでもなく。ずっと前から知り合いだった友達のように、彼女は山本の中に刻まれた。
本当に、不思議なやつだなと、山本は思った。
という人間は一見すると同学年の女子となんら変わりのない、どこにでもいるような普通の中学生にしか見えないのに、ふと口にした一言だったり、不意に見せる表情が妙に記憶に残るのだ。
自分の怪我を自然に労わってくれていたことや、助け合うことを当然だと変わらぬ態度で言い放ったことも。真剣な顔でツナのことを見つめる視線に、席を立ったときに一瞬だけ見せた、泣きそうな横顔も。何もかもが、写真のように焼きついて離れなかった。
普通に見えて、普通じゃない。さすが幼馴染というべきか、そんなところは、もしかしたらツナに似てるのかもしれないな。行きついた結論にどこか引っ掛かりを感じつつも、山本は「そうだ」と普段どおりの明るい調子できりだした。
「、ちょっと待っててくんねーかな」
「待つ?」
「ああ。もう、こんなに暗いだろ?途中まで、一緒に帰ろうぜ!」
「…………へっ?」
彼女の口からは随分と間の抜けた音が飛び出ていたような気もしたが、善は急げ!と言わんばかりに山本は飛ぶような足取りで野球部の荷物置き場へと向かった。制服に着替える間も惜しんで、荷物だけを肩にかけ戻るまえに挨拶をと部の先輩の方を向くと、いくつもの好奇の視線が山本に突き刺さってきた。
「や〜ま〜も〜と〜」
「な、なんすか、先輩っ」
「なんすか、じゃねえだろ〜〜!なんだよ、あの子は!お前の彼女か!?」
先頭をきって声をかけてきたのは、一学年上の先輩だった。部内でも面倒見がいいと評判で、秋の大会が終わったあとの部長は彼だというのがもっぱらの噂だ。
「違いますって!は、ダチの幼馴染なんスよ」
「って…二年B組のか!?」
「…先輩、知ってるんスか?」
「んだよ、お前の方が知らないのか?B組の転入生、つったら、今かなり有名だぜ?一年の間じゃまだ噂になってねーのかな。おーい、岡田!お前、確かB組だったよな」
名前を呼ばれた岡田は、使い込んだあとの目立つ大きなスポーツバッグから「んあ?」と興味も少なげに顔をあげた。どうやら、先ほど山本に向けられていた視線の中に、彼のものはなかったらしい。
「んだよ、長谷部。B組で悪いのか?」
「ちげーよ、アホ。お前、話聞いてなかったのか?だよ、!お前、同じクラスだろ?あの"図書室の君"とさ」
とたん、ぴくりと岡田の眉が動いたことを山本は見逃さなかった。ほんの数秒前までは興味もやる気もなかった岡田の瞳に、剣呑な光が影のように浮かび上がる。どうやら本気で、苛立ちを感じているように山本には見えた。
「…あのなぁ、岡田。大して知りもしない奴のこと、噂で知った気になるなって、俺はいつも言ってるよな」
「なんだよ、それ。今、初めて聞いたぜ」
「てめぇが覚えてないだけだろ。大体、はお前が思ってるような女じゃねーよ。極々普通の転入生ってだけだ」
「いやいやいや!普通の女子だったら噂になってねーって!」
「勝手に噂にして楽しんでるだけだろ!知らないところで適当なこと言われてるの気持ちも考えろって言ってんだよ」
「あの〜先輩、ちょっといいっすか?」
だんだんと怒気が増す岡田の妙な雰囲気に、水を打ったのは対照的な空気をまとった山本の声だった。内心では自分の知らないところで「」が語られていることに、小さな違和感を感じてはいたのだが、その感情が表面にでることはなかった。喉に、空気が詰まったような、引っ掛かり。それが長谷部に対してのものだったのか、岡田に対するものだったのかはわからなかった。
「って、そんな噂になってんスか?」
「…噂ってほどでもねぇよ。ただ、転入生ってだけでも普通に目立つのに、のやつ初日っから応接室なんかに呼ばれてよ。実際にはただの書類不備で書き直しってだけだったのに、次の日にはドカン、だ。"図書室の君"ってやつだって、あいつが放課後によく図書室にいるから誰かが勝手に呼び始めただけで…そんな奴、他にいくらだっているはずなのによ。たまたま話題になったあとだから、面白がってんだよ」
「あのさー岡田はちょっとネガティブに見過ぎだって!確かに噂の出だしは風紀の呼び出しだったけどよ、実際本人が目立つから二週間たった今でも噂になってんだろ?結構人気も上がってきてるって話だぜー」
「それが勝手な噂だって言ってんだよ。ったく…で、山本はなんでを知ってんだ?」
「…オレのダチが、の幼馴染なんスよ。丁度そこで逢ったんで、送ってこうと思って」
「なんだ、待たせてんのか。だったら、早く行ってやれよ」
「あ、悪ぃ。引き止めたの俺だ」
「またてめぇか、長谷部!」
「ははっ!じゃあ、お先っス」
言い切るよりも先に、頭を軽く下げながら山本は再び足を走らせる。ふたりの先輩のやりとりも、あっという間に背中に消えた。一秒でも、早く。ただ、彼女のそばに戻りたかった。荷物を取りに戻るだけのつもりだったのに、もう随分と時間も経ってしまっている。彼女は怒っているだろうか。いや、そんなことないよな。浮かんだ想像は、暗がりに立つ彼女の姿が目に付いた瞬間に砕けて消えた。
「ッ」
「山本くん、走ってきてくれたの?それにまだユニフォーム、着たままだし…」
「結構待たせちまったからな。ごめんな」
「そんなに待ってないから大丈夫だよ。あ、そうだ。部活、お疲れさま」
噂を聞いて、気になったのは転入初日に応接室に呼ばれたことがきっかけになったということ。同じ日に直接話をしていた山本は、彼女が放送で応接室に呼ばれたことも、その内容が書類の修正だったことも知っていた。あの時は、それが正しかったのだと思っていた。
(だけど…応接室っていったら、あれだよな)
思い出すのはつい先日遭遇した、獣の目をした孤高の少年。
あとから聞いた話だが、応接室は随分と前から風紀委員の活動場所として使用されていたらしい。そんな場所で、彼女は本当に書類を書き直していたのだろうか。彼女のあのときの言葉は ――――― 本当に真実だったのか。
「山本くん?」
「ん?」
「…ユニフォームで、ほんとにいいの?」
「ああ。どうせ帰って洗うだけだからな。じゃ、行こうぜ!」
山本が一歩足を踏み出せば、は噂では見えなかった顔で「うん」とはっきり微笑んだ。
やっぱり、人の話よりこっちのがいいや。
遠慮する彼女をなかば引きずるように家に連れ帰って夕飯を振る舞ったときも、そのあとで彼女の家まで送ったときもずっと隣にあった確かな空気には、心地よさばかりが溶け込んでいた。