この瞬間の憶だけで、

あと何年でも生きていける気がした







その女子生徒への第一印象は、「誰」だった。
彼女が去った応接室で、雲雀はほんの数ヶ月前のことを思い出していた。


七月の終わり。突然鳴り響いた携帯電話。その向こう側に彼女はいた。
並盛町で使われている市外局番を頭につけた見知らぬ番号を、無視してしまってもよかった。けれど、自分の携帯番号を知っている人間がいるのならばそれを確かめておこうと思い押した通話ボタン。本当に、ただの気紛れだった。おそらく獲物の群れを咬み殺したあとでなければ、番号だけ控えて無視していただろう。誰がかけていたのかくらい、風紀の人間に調べさせればすむのだから。
ただの、気紛れ。
けれど、機械を挟んだ向こう側の彼女の声は、ただの気紛れを格上げさせるには、十分だった。


ッ!よかった、!私、どーしたらいいかわかんなくて、」


甲高い、と言い表せそうな声音は苛立ちを生んだけれど、耳に痛いほどではなく。普段、雲雀が並中で聞く女子生徒の声と比べると、叫んでいるにも関わらず空気を劈かない音だった。
あとから考えれば、電話を通していたがためにそう聞こえたのかもしれない、と雲雀は思う。けれど、声だけでなく、彼女の言葉の内容自体にも若干の違和感を感じていた。
繋がっている相手が""という人間でないと気付いた瞬間の絶望感。正しい携帯の番号を述べておきながら、番号を間違えたと言った発言だって、通常ではありえない。自分は番号を間違えたわけではなく、番号に出た相手が間違っていたのだと、彼女の言葉は告げていた。
と言っても、電話はすぐさま切られてしまい、それ以上の追及ができなかったことも事実。草壁に番号の主を調べるように言ってはおいたが、次の日には思い出すこともしなかった。その程度の、興味だった。


「そこの人たち、なにしてるんですか?」

けれど、その気紛れは間もなく、完全な興味へと変わった。
夏の暑い日。無謀にも十数人の高校生が雲雀に喧嘩を売ってきた場面に、彼女が現れたのだ。
ずいぶんと長いこと角の向こう側に隠れていた彼女は、雲雀に拳が振り上げられた瞬間になって姿を見せた。はじめに認識したのはあの声だった。容貌は壁の如く周囲を囲んでいた群れのせいで捉えることはできなかったが、雲雀には現れた人間があの時の少女であることがはっきりとわかった。

甲高い、と言えないわけではないはずなのに、耳に痛いほどではない。
柔らかく空気を揺らす音。

電話越しだったせいではなかった。それが、彼女の声だったのだ。
あの時とは違い、落ち着きはらった声だったけれど、その端が震えていることは簡単にわかった。だったら、出てこなければいいのに。理解できない心境に苛立ちがつのる。とりあえず、それを発散させる意味をこめて周囲の群れを咬み殺すと、ようやく彼女の姿が雲雀の前に現れた。

背に伸びる黒髪を風になびかせた少女は、同じ色の大きな瞳を少しだけ揺らして、それでもはっきりと雲雀のことを見据えていた。
今しがた咬み殺された者たちの血で染まったトンファーを掲げても、一歩雲雀が近づいても、彼女は雲雀をみていた。
きつく引き結ばれた唇が、彼女が怯えていないわけではないのだと告げている。恐怖で足が竦んでいるんだろうか。視線を逸らさない人間は珍しいが、こうして逃げ出すことすら不可能になった弱い草食動物は少ないわけではない。
なんだ、つまらない。
この子もひとふりで終わりだ。そう、雲雀が無造作に獲物を振り上げようとした刹那、


「ちょっと待って」


立ち竦んでいたはずの少女は、嘘のような足取りで駆けだした。それも、逃げるためではなく、再び戻ってくるために。その上、彼女が応急処置と言って手当てしていた相手は、ついさっき彼女が止めようとしていた側の人間だ。その思考回路の動きは、雲雀にはわけがわからなかったが、彼女の手際の良さには「へえ」と感嘆の声が零れた。
さらにもっとわけがわからないことに、手当てを終えたあとも彼女は決して逃げようとはしなかった。それどころか、よくわからない理由をつけて、雲雀にハンカチまで差し出したのだ。
咬み殺されたあとに血を拭ってくれ、と言った少女は、不思議なことにその瞬間になって雲雀から視線を逸らした。ついさっきまで、自分を見ることになんの躊躇いも見せていなかった少女が、対等な口調で命令までしてきた少女が、こんな場面で。本当に、わけがわからなかった。
だからというわけではなかったが、結局その日、雲雀はその少女を咬み殺さずに見逃した。差し出された、鶯色のハンカチだけを攫って。どうせ彼女は群れているわけでもないし、と理由をつけて。


そうして今日、三度目の印象は「変な子」だった。

件の少女が転入生として並中に来ると知ったのは今朝。呼び出しをかけたのは、ちょっとした好奇心からだった。わざわざ、来年度からの導入を予定していた新しい書類まで用意して嘘をついたのも、彼女がどんな態度をとるのかに興味がわいただけで、本当に書き直しが必要だったわけでもない。
現れた少女は、夏のことなど忘れてしまったように雲雀に対して丁寧な口調で話しかけてきてはいたが、そのくせ怯えることもなく自分を真っ直ぐに見る不遜な態度はあの時となにひとつ変わってはいなかった。書類の変更なんていう嘘に簡単に引っ掛かっているあたりは若干考えなしのようにも思えたが、書きあがった書類の字は丁寧かつ繊細で悪くない。

何よりも雲雀の脳裏に残ったのは、書類を渡し終えたあとに彼女が見せた、ふやけた表情だった。
笑むよりも曖昧に緩んだ無意識の顔は、応接室にはずいぶんと似合わないものだった。この部屋で、あんな表情をした人間を雲雀は見たことがない。大抵の人間は自分に怯え引き攣ったように笑うか、恐怖に顔を歪めるか。普通に笑う人間がいないこともないが、あんな安心しきった、緩んだ表情が浮かんだことは一度としてなかった。
貶すつもりではなかったが、「変な顔」と素直な感情を告げたとたんにその表情は一変してしまったし、雲雀が近づいた直後に彼女は応接室から逃げるように出てしまったけれど、そんなところも雲雀の興味をそそるには十分で。彼女が去った応接室で、彼女が書いた書類を拾い、雲雀は笑みが零れるのを抑えることができなかった。

「どうせまた、逢うんだろうね」

根拠のない言葉は、口に出してみると途端に確信を持って雲雀の中に溶け込んだ。
そのときには、どうして僕の名前を知っていたのかを聞いてみよう。
次にが浮かべる表情を想像して弛んだ口元に気付きながら、雲雀は手の中の紙を丁寧にファイルにとじた。



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※雲雀恭弥に興味を持たれた!