(理解なんて到底し合えない。 けれど、だから傍にいられる)
「?」
その日は、雨が降っていた。
正午前までは天高く、という言葉を体現したような澄んだ青い空がどこまでも続いていた。けれど、西の空の端から現れはじめた黒い雲は、あっという間に青空を覆い隠して、授業が終わることにはバケツをひっくり返したような土砂降りが地面を叩いていた。そんな日だった。
「…」
雲雀恭弥が彼女を見つけたのは、ひとえに雨が降っていたおかげだった。
応接室の窓を激しく叩く雨音に気が向いて、ふと視線を外に向けた。窓の外では、授業を終えた何人もの生徒達が下校を始めていた。
赤、青、黄、黒。色とりどりの傘の群れと、その間を走る危険回避能力に欠けた学生たち。孤独を好み、群れを嫌う雲雀は瞬間的に自分の行動を後悔した。実際には後悔というよりも、窓の外で群れる学生達に苛立ちを感じたと言うほうが正しいかもしれない。雨の中、面倒ではあるが全員咬み殺したくなる衝動を抑え、視線を手元の書類に戻す。
それが視界を過ぎったのは、その時だった。
それに気付いた雲雀は、再度確認することも、見間違いと無視することもせずにただ無言で席を立ち、応接室をあとにした。
そして、雲雀が彼女に追いついたのは、彼女が屋上に続く扉に手をかけたときだった。
名前を呼ぶ。そして、階段を登り距離を狭める。
雨が降っている所為か、屋根のない屋上に続く階段は無人で、雲雀の足音だけが奇妙なほどに響き渡っていた。
けれど、なによりも奇妙だったのは、おそらく彼女の姿なのだろう、と雲雀は考えた。
「ねえ、。君、どうしてそんなにずぶ濡れなの?」
の肩が、びくりと揺れた。
雲雀が口にした言葉に、誇張は一切なかった。後姿ではあったが、肩にかかる黒髪は彼女の白い首にはりつき、長袖のシャツも肌の色がわかるほどに透けていた。制服のスカートからは止め処なく雨の雫が零れ落ち、立ち止まったの足元には水溜りが出来ている。
雲雀が彼女を捉えたとき、彼女は傘もさしてはいなかった。
校門へと向かう学生達の中、彼女はそれに逆らってひとり、校舎の方へと向かっていた。
行き交う人々から逆行しながら、彼女がそれほどの注目を浴びなかったのは、おそらく彼女がただ歩いていたからなのだろう。走るわけでも、焦るわけでもなく、は晴れの日に登校する学生のように極自然に歩いているように、雲雀には見えた。
だから、雲雀は彼女を探した。
胸騒ぎ。虫の知らせ。きっと、どれも当てはまらない。
雲雀を動かしたのは、彼の中に微かに、けれどはっきりと根付いていた、彼女に対する確信だった。
「なんとか、言ったら?」
彼女は雲雀がこれまで出逢ったことのあるどの草食動物よりも強かで、どの小動物よりもか細かった。
そして、同時に彼女はどうしようもないくらいに、自分の感情に鈍感な人間でもあった。大概に他者に寛容な人間ほど自身に無頓着にはなりやすい。けれど、彼女の場合はそれを本人が意図的に行っている節があるように、雲雀は感じていた。
という人間は、強かで、か細く、鈍感で ―――――――― 厳しい。
それが、雲雀恭弥が珍しく認識している彼女の印象だ。彼女は、誰よりも何よりも、自分自身に厳しい。それ故に、彼女は群れる草食動物でありながら、か弱い小動物でありながらも、生き抜いていられるのだろう。
けれど、それは絶対の生存方法でもなければ、永久不滅の緩衝材でもなかった。
「…は、ずるい」
「なにがずるいの?」
「ひばりは、ずるい」
同じ高さ、踊り場に立ってすぐ側から見下ろしたの姿は、いつにもまして小さかった。そして、彼女が漏らした声も同じように小さかった。
俯いてしまっている所為で、雲雀からは彼女の表情を伺うことはできなかった。
けれど、顔が見えなくとも、雲雀にさえわかった。
震えた肩。震えた声。震えた、体。
"ひと"と、数えるほどしか本気で接したことのない雲雀にさえ、わかった。
「ずるいのは、君のほうでしょ。
いきなり泣きだして、いったい何がしたいの」
肩を竦ませ雲雀が息を吐くと、扉にあてられていたはずの彼女の手が唐突に雲雀の身体に伸びた。
敵意も殺意もないの腕は、雲雀の胸のあたりに当てられた。軽く、押しのけるように力が込められる。もう一度、雲雀は大きく息を吐いた。
「誰か気に喰わない奴がいるならいえば?今すぐ咬み殺してきてあげるから。それとも、何?必要なものがあるなら風紀の誰かに持ってこさせるよ」
それは雲雀恭弥にとっては破格といっても過言ではない対応だった。おそらく、風紀委員の誰か、もしくは雲雀恭弥の名を知っている誰かが聞けば、耳と現実とを疑い兼ねないような内容だった。
けれど、彼女は頑なだった。
小さく、それでもはっきりと首を横に振り、拒絶するように雲雀を押し遣る。震えた手には大した力も籠もらないが、それでも彼女が雲雀を拒んでいることは、雲雀自身にもはっきりとわかった。
「…はっきりしてよ。いったい、誰が君を泣かせたの?」
脳裏に浮かんだ苛立ちは、目の前で何も言わないに向けられる二割と見えない存在に向けられた残りで構成されていた。
理由に名前を付けることを、雲雀はしなかった。そんなこと、不可能だとわかっていたからだ。
ただ自然と浮かぶ腹立たしさと、それとは真逆の感情との狭間に、雲雀は立っていた。
胸に当たる彼女の手首を握ると、素肌を通じて彼女の低い体温が伝わる。掴んでも止まらない震えは、雲雀の中の苛立ちを増長させ、繋がった体温はゆらゆらと浮かび漂う感情を増殖させる。
「」と、そのまま名前を呼べば、彼女はついに膝から崩れ落ちるように床に座りこんだ。
「どおして」
繋がった腕とは逆の手で、が自分の顔を拭う仕草が見えた。それに重なって聞こえた言葉は、泣いているようにも叫んでいるようにも届いた。
掴んだ手首をそのままに、雲雀もその場に片膝をついた。彼女から零れた滴で床は濡れていたが、不思議と気にはならなかった。小さな小さな彼女の声を聞きとるためには、音源と高さを合わせる必要があった。無意味に理由付けをして、雲雀は彼女の言葉を待った。
は、もう一度「どうして」と掠れた声で呟くと、まるで怒りをぶつけるように雲雀に告げた。
「 」
それは、訪ねた彼にとっても口にした彼女にとっても予想し得なかった言葉だった。
呼んでしまった名は、今はもう退けられた人のもの。そして、懇願することさえ、望むことさえ間違った相手なのだと、誰よりも自身が理解していた。
けれど、それでもには探さずには、望まずにはいられなかった。
知ってしまった、関わってしまった、求められてしまった者として。拒絶も忘却も、決して選べる道ではなかった。
勿論彼女は、彼の名が雲雀にとって禁句に近い音であることも知っていた。雲雀も、彼女がそれを知っていることをわかっていた。
だから、雲雀は自身の中に沸々と湧き上がってきた憤りをぶつけるように、彼女のもう一方の手を掴んだ。
力任せに引かれれば、両腕を拘束されたには雲雀と向きあう以外に選択肢がなかった。ともすれば叫んでしまいそうになる唇を噛み締めて、は雲雀の顔を見た。
雲雀の眼に映った彼女の顔は、雲雀が咬み殺したあとの草食動物のように歪んでいた。大きな瞳は白眼が真っ赤に染まって、今も端々から止め処なく雫が零れ落ちている。頬を濡らす水滴が彼女のものなのか、それとも髪から伝ったものなのかはわからなかった。けれど、たとえ雨に濡れていなくとも、彼女の顔は今とさして変わらないのだろうと、雲雀は思った。
「不細工だね」
「…ほっといて」
「いやだ。君の言うことなんて、聞いてあげないよ。だって君は、僕の言うことをまったく聞かないから」
「だから、」と雲雀が言葉を区切らせると、彼女は瞼を僅かに伏せて雲雀を見つめた。それはどこか懇願するようでもありながら、雲雀には彼女が自分を睨んでいるようにも思えた。
けれど、雲雀は躊躇わなかった。止められても、止まるつもりはなかった。
両手を塞ぐ彼女の腕が、雲雀から逃れようと小さく動いても、雲雀は言った。
「咬み殺してあげるよ、君の前で」
そうすればこんな風に、君が悩む必要もなくなるから。
一瞬だけ、頭に浮かんだ台詞を雲雀は口にもしなかったし、記憶に留め置くこともしなかった。それはおそらく、理由のひとつではあるけれど総てではなかったからだ。
だから彼女も、雲雀の言葉を否定するように瞼を閉じて、微かに首を横に振った。
閉じた瞳からも、ぽつりぽつりと泪は溢れた。掠れた弱々しい声が「ずるい」と三度目の慟哭を告げた。
それから、雨が止むまでの間ずっと、雲雀とはそこにいた。
両腕で繋がったまま、向かい合ったまま、そのまま。
決して共有することのできない互いの感情が、決して伝わらないことを知りながら、それでも互いの体温を振り払えずに。
時折耳に届く激しい雨音だけが、どこか淋しげにふたりを世界に取り残していた。