ラプンツェルに口付けを、






脚立と梯子だったら、脚立の方が好きだった。
だって、脚立は四本足で安定しているけれど、梯子は立てかけなければ倒れてしまう。小さな頃、庭の生垣に梯子を立てかけて作業をしている植木屋さんをみて、いつもびくびくしていた。いつ倒れてしまうかわからない恐怖。ほんの少し、横から誰かに押されてしまうだけで揺れる不安定さが苦手だった。
幼い頃から、安定を求めていたように思う。自己分析が趣味なわけではないけれど、やっぱり父親が不在で母親も家を空けがちという一般家庭とは少し違った家の中で、それを一度たりとも考えないなんて不可能なわけで。子どもというのは意外に無自覚で残酷だから、私は勝手に傷ついては自分の現状に名前と意味ばかりをつけていた。それでも私は運がよくて、似たような不安定さを持った正反対の同い年の子どもが同じ商店街内に居たことで、かなり落ち着けていたように思える。


 チリーン


たとえば、私と彼の関係に名前をつけることが可能だとしたら、どんな言葉が似合うだろう。幼馴染はあまりに薄っぺら過ぎるし、恋人というには依存しすぎてしまっている。赤の他人よりは近しいし、ただのクラスメイトにしては付き合いが長い。
友達。他人に関係性を尋ねられたときには、当たり障りのないその言葉を良くつかうけれど、世間一般に使用される「友」の定義が私と彼に当てはまるようには到底思えなかった。だって、私と彼が一緒にいるのは、利害関係とよく似た重く捩れた何かが根底にあるからだ。私も彼も、どこか欠けている。そして、それを他人に知られてしまうことを酷く恐ろしいもののように感じている。だから、決してそんな風に見えないように振舞っては、抜け落ちた部分を大きくしていた。お互いに、その部分が重なりそうだった、ただそれだけのこと。
私と武の関係は、きっとそれだ。血の繋がらない鏡の向こう側。不可欠な他人。互いに形を探して、補完しあって。そうやって過ごす方法しか、持っていなかった。


「 ――――― アレ?今日は『Buongiorno』って言ってくれないの?」


薄暗い店の中、天井まで届く背の高い棚の前にたてた脚立の下から四段目。腰掛けたまま、入ってきた青年に一度だけ視線を向けた。
上から下、それこそ頭の先っぽから足元までのほとんどが白で彩られた彼は、目敏くそれに気付くと満足気に口の端を引き上げる。「また来ちゃったよ」鈴が転がるような、猫が哀願するような声音は、どこか居心地が悪くて私は返事を拒んだ。棚に並べられた瓶の中の飴玉を数えて、手元の紙に数字を書く。オレンジ、残り九粒。今度「彼ら」が来たときに、注文しておかなくちゃ。

「珍しいね。そんな風に、お店の仕事してるのって」
「…一応、雑貨屋なんだけど。ここ」
「そうなの?でもさ、何にも売ってないって、前に言ってなかった?」

四畳半程度の広さしかない店内は、三方向の壁を背の高い棚で囲まれていて酷く薄暗い。
大通りから一本はずれた路地裏の更に奥の奥、街の中でもっとも陽が当たらないと言っても良いような場所に位置していることも原因のひとつなのだろう。当然ながら、そんな場所までわざわざ雑貨屋を求めてやってくる酔狂な人間など殆どいなくて、一応雑貨屋を名乗ってはいるけれどその意味でこの場所が機能したことなど、それこそ皆無だった。
そもそも、雑貨屋といいつつ店の前にはなんの看板も立っていなければ、レジすら用意されていない。店、なんてものではないのだ。ほんの数年前、この場所を与えられた時から、何ひとつ変わらないここは「彼ら」が訪れるためだけに存在している場所だから。


「…その、何も売ってない雑貨屋に、貴方は一体なんの用?」


だから、結局のところおかしいのは目の前にいる彼、なのだ。棚の中、並べられた瓶に視線を向ける。サイダー、残りたくさん。数えるのも面倒なくらい、大きな瓶はびっしりライトブルーの玉で埋まっている。
店の正確な位置を知っている人間は、とても少ない。十人はいるけれど、おそらくまだ二十人はいないんじゃないだろうか。それは同時に私が接することを許された人間の数で、そのなかに白い青年は含まれてはいなかった。「君に逢いに来たに決まってるじゃん、チャン」声だけでわかる、彼はわらっている。

「一応雑貨屋だから、冷やかしはお断り」
「んーじゃあ、チャンを買いに。それなら、冷やかしじゃないでしょ」
「…残念だけど、雑貨屋でも人間は取り扱ってないよ」

グレープ、残り一粒。この間来た子に、帰り際渡してあげたからだ。今度はいつ来るだろう。それまでにまた瓶をいっぱいにしておかないと、泣かれてしまうかもしれない。
ころころ、丸い粒が詰まった透明な瓶には、特殊な加工が施されていて中に入っているものが通常よりも長く保存できるようにしてあるという。人の出入りを、出来る限り少なくしたかったからだと「彼ら」は言った。「でも、チャンも同じでしょ」白い青年が言った。確かに、とはっきり脳裏に言葉が過ぎる。大きさこそ違えど、形こそ違えど、同じだ。私と飴玉。瓶の中に入れられて、暗闇で保存されている。保管されている。補完、するために。

「だから僕が君を買っていっても、きっと誰も責めないよ」

まあ、責められても買っちゃうかもしれないけどね。声は、とても近くから聴こえた。不意に、晒された左足をぬるい刺激が通り抜ける。触れたのは、青年の手のひらだった。すらりと伸びた指は、誰のものにも似ていない。指が、一本一本確かめるように足首を包む。壊れものに触れるように、っていうのはこういう仕草のことをさすんだろうか。
彼の右手が完全に私の足首を固定すると、もう一方の手が履いていたサンダルのベルトにかかる。踵にひっかけたベルトが彼の指で器用に外されると、左足に履いていたヒールの低いサンダルはいとも簡単に彼の手の中へと落ちた。
「そのサンダル、高いらしいよ」値段なんて知りもしないけれど、そう告げると白い青年は「最近人気のブランド物だよね」とあっさり信じられない値段を口にして手の平を返す。カコン。乾いた音が鳴った。想像よりもゼロひとつ高かったサンダルを、まるでどうでもいいもののように。一応まだ庶民派を気取ってる私には、信じられない行動だ。

「あれ、もしかして気に入ってたの?」
「…どうして?」
「だって、眼が追ってたよ」

無意識の行動を指摘されて、反射的に彼の方を向いてしまった。ニイ、顔から眼が消えてしまうんじゃなかと思えるくらいに瞳を細めて、青年は笑っていた。「だったら、僕が新しいの買ってきてあげようか?」ボールペンの頭を押して、芯を戻す。「いらない」冷たく答えて、左足を振った。けれど、青年の手は簡単には離れてはくれなかった。

チャンにはもっと暗い色の方が似合うと思うよ。…あとは、やっぱり白かな」
「正反対だけど、その二種類。結局どっちなの」
「そしらた白かな。ほら、僕ともお揃いになるし」

光の少ない店内でも、彼の色は良く目立つ。白、すべての色を等しく反射した色。何もかもを拒む色。「チャンの性質は"黒"だから、すごく白が映えると思うよ」青年の指がすべるようにふくらはぎを這い登る。気持ち悪い、というには軽すぎる感触は妙にくすぐったくて、拒みたくて足を動かそうとするのに固定された体はいうことをきいてくれない。弱弱しく小刻みに震えるだけの左足を、彼は愉しそうに見据えていた。これ、私の足だよね。なんだか、その実感すらも忘れられるような違和感。白い青年は、私にそう思わせる何かを持っていた。
「僕はね、」名前も知らない彼は、私の足を引き寄せて囁いた。


チャンの全部、僕の色で染めてあげたいんだ」


だって、君の傍って気味が悪いくらいに居心地がいいんだよね。踝の裏側に唇を寄せ、彼は言う。

「でも時々さ、居心地良すぎて全部、壊したくなっちゃうんだ」
「なにそれ。どんな破壊衝動?」
「オカシイと思う?でも、チャンの周りは、僕みたいなのが溢れてるんじゃないかな」
「…少なくとも、貴方みたいに口に出す人はいないよ」
「そうなんだ。ああ、でもそうだね。こんなところに置いておけるんだから、僕よりはマシなのかもね」

膝の下、向う脛のあたりに額を当てたまま、彼は上目遣いに私をみる。睨まれているわけではなかった。けれど、射抜かれてしまいそうな鋭さを秘めた宵闇の瞳は、私に否定も肯定も許してはくれない。「僕だったら、とても安心なんてできないよ」思い、つかなかったわけではなかった。ここは世界から隔離された場所。意図的に隠された瓶の中。私は「彼ら」がどんな力を持っていて、どんな手段を使ってこの場所を維持しているのかなんて知らない。私に求められたことは、たったひとつだけだったから。「オレたちと、一緒にイタリアに来て欲しい」数年前、「彼ら」の中のひとりが告げた言葉が頭に浮かぶ。白い青年は、知っていた。
私をここで保管している、「彼ら」のことを。


「ねえ、チャン。倖せになりたくない?」
「悪いけど、貴方の倖せになるつもりは更々ないよ」
「でも僕だったら、君をここから出してあげられる。まあ、自由はあげられないけどね」


だったらそんなの、同じでしょう。「彼ら」と貴方と、いったい何が違うというの。喉の奥で絡まった台詞は、再び青年が落とした口付けによって阻まれた。ここからでたいひとりになりたいじゆうがほしい ――――――― だけど、欠け落ちた隙間がまだ、埋まらない。
くつくつと喉の奥で彼が嗤った。それがあまりにも倖福そうに聴こえたから、私はボールペンの頭を押して、再び手元の紙に数字を書いた。彼の言葉を受け入れる可能性、ゼロ。表の外に描いた丸は、ぽっかり空いたおおきなおおきな穴のようにも見えた。

「…冷やかしは、お断り」

ぐりぐり、白い穴を黒く塗りつぶして、本日二度目の台詞を告げる。冷やかしはお断り。空虚な期待は、もっともっとお断り。白い青年が誰で、どんなつもりで動いているかなんて私は知らないし、知るつもりもない。だから、期待しているのかどうか自分でもわからない期待は、最初からしない。
バインダー越しに見えた彼の瞳に雑じった歓喜の情動に気付かないふりをして、棚の瓶の中、残った飴玉の数を数えてボールペンを走らせる。触れていた彼の顔が、足から遠のいていった数分後、左足をもう一度大きく振った。掴まれた足首は、まだ温かい。





(瓶の中のラプンツェルは、今尚王子様に閉じ込められたまま、ひとり自由を夢、みない)

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※路地裏の雑貨屋さんで、白蘭さん。どうみても、白蘭さんは王子様より魔女役が似合いそう。