一度目の「また来てくださいね」は、社交辞令だった。
とは言っても、ロヴィーノがそれに気付いたのは、四度目の「また来てくださいね」を目にした時だった。
いけ好かないジャガイモ野郎に向けられた「また来てくださいね」。まるでトレース画のような一瞬だった。頭のてっぺんから足の先まで、完全に重なる姿。きっと自身、欠片も意識していないのだろう。自然に浮かべられた不自然な微笑みを疑うことなく、誰も彼もが照れ笑いを返す。観察を続ける途中で、あのバッシュまでもがはにかみ返していたことに、ロヴィーノは土産に持ってきていたトマト箱を落とすくらいに驚いた。
ロヴィーノがそれに気づいたのは、きっと天文学的な奇跡に近い偶然だったに違いない。もちろん、それを引き寄せたのは、暇があればいつの間にかを眺めていた彼の行為の賜ではあるけれど。
「今度、俺ん家に来ないか?」
という人間は、非情と呼べるくらいに平等な女だった。
彼女にとっての「特別」は一人で、彼女の世界は彼女の「特別」とそれ以外でできていた。だからからすれば、誰に対してでも心を込めて「また来てくださいね」と口にするし、それを真に受けた馬鹿な誰かが来訪しても、嫌な顔一つせずに歓待する。
それはすべて当然のことで、一寸たりとも特別なことではなかった。なぜなら彼女にとって、一人の「特別」以外は区別をする必要すらない存在だったからだ。誰かを上にする必要も、下にする意味もない。だから、みんな同じ。みんな平等。それは、考えるまでもなく、彼女にとっては呼吸をするのと同等に当たり前のことだった。
そう理解してから、ロヴィーノの眼に映るは変わった。
なんていけ好かない。そう感じた瞬間もあった。
彼女の祖国によく似ていると、端的な感想を抱いたときもあった。
彼女の「特別」以外の全てに対して等しく向けられる笑み。紡がれる言葉。手渡される優しさ。時に辛らつな厳しさ。誰にでも区別すること向けられるその全て。
そしてそれら全てが同等に自分にも向けられたとき、ロヴィーノは知らぬ間に泣いた。
いつもどおり、今までどおりに微笑むの前で、泣いた。みっとなく、大人気なく、流れる涙は留まることを知らず、延々と泣き続けた。ぼろぼろと眼から溢れた涙がシャツの裾を濡らしても止まらない。ぼやけたロヴィーノの眼には、写し絵ではないぎょっと瞳を丸くしたが映っていた。
「…んだよ。なんとか言えよな」
「あ、すみません。なんだか、嬉しくて」
涙が出た理由がなんだったのか、ロヴィーノにはわからなかった。
ただ、ひとつはっきりしていたのは、泣き出したロヴィーノを前にしたは、ロヴィーノを「特別」とも「特別」以外とも違う、”ロヴィーノ”として向き合ってくれたことだった。
今にして思えば、は何に対しても全力なのだと、ロヴィーノは思う。
彼女の「特別」を全力で大切にして、「特別」以外に対するときも手を抜くなんてことは小指の先ほどもない。辞令的な挨拶にも余力なんて残さない。いつだって一所懸命だから、いつだって同じ。誰にだって平等。だって、その瞬間、瞬間を余すことなく生きているのだから、違いが生まれるなんてない。
普通なら、好意的な相手に八割の好意で接し、気に喰わない相手には四割の対応を返すときも、はいつでも十割。
それが、ロヴィーノには怖かった。
今にもすべてが、燃え尽きてしまいそうで、怖かった。
「ロヴィーノさんがエスコートしてくれるんですか?」
「俺以外の誰が案内すんだよ」
「フェリくんとか」
「南案内すんのに、なんでバカ弟に頼まなきゃなんねーんだよ」
「じゃあ、アントーニョさんとか」
「ぜってーない」
「そうですか?アントーニョさんってロヴィーノさんのことならなんでも知ってそうだし、案外適任だったりするかもしれませんよ?」
くすくすと悪戯っぽく笑うがいることを、きっとロヴィーノも自身も知らなかった。
いつだって全力で生きていた。いつだって「特別」と「特別」以外の世界で生きていた。そんなの世界に飛び込んだ「特別」でも「特別」以外でもない”ロヴィーノ”。
ロヴィーノは、自分がにどんな影響を与えられたのかなんて知らない。彼女を救えたとも思わないし、手を抜くことを知らないが九割で人と接する術を身に着ける切っ掛けになったとも思わない。
いまだには誰に対しても変わらず「また来てくださいね」と笑うし、メタボやバカ弟が来日すれば嬉しそうに心から迎え入れる。
けれどその隙間で、はロヴィーノに告げなくなった。再びの来訪を求める言葉を。「また来てくださいね」を。だからロヴィーノは、口にするようになった。「俺の家に来ないか」と。
「お前、俺の案内じゃ文句でもあんのかよ」
「そうですねぇ…イタリアは、美人な方が多いって聞きますからね」
「はあ?」
「わかりませんか?」
「何がだよ」
「……余所見、されるくらいなら、ほかの人に案内していただいた方がいいかも、くらいには私だって思いますよ」
「なっ…!」
そして今、ロヴィーノの目の前ではにかみ笑うを、恋しいと、愛しいと想う自分が、ロヴィーノは好きだった。
彼女の「特別」になんて、永遠になれないことは知っている。
今でもロヴィーノの周りの連中が、彼女の全力に惹かれ続けていることだってわかっている。
いつだって強がって、意地を張って、けれどときどき強かで、何事にも精一杯な。
自分を甘やかす方法を忘れた、とことん不器用な。
こうして今、隣で座ってくれている。
そのどれもが、ロヴィーノにとっては「特別」だったから、それでよかった。
「お前こそ、余所見してんじゃねーぞ」
「じゃあ、ロヴィーノさんしか見えないようにしていてください」
「言ってろ、ばーか」
真っ青な空のもと、南の美しい街並みを歩いても、きっと景色なんて眼に入らない。わかりきった未来に眦を緩め、二人は幼い子どものように無邪気に笑った。
振りきれた想いが戻ることなんて二度とないと、笑った。