そうして王子様とお姫様は倖せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。
小さい頃、そんなラストの物語を何十と読んだ。めでたしめでたし。そんなふうに、何もかも終わるものだと当たり前に信じていた頃もあった。信じなくなった頃もあった。そして今は、それを痛いくらいに探している。
「たっだいまー!」
底が抜けた能天気な声に、ばたばたと廊下を走る音の二重奏。それから、手加減なく思いっきり開け閉めされたドアの悲鳴が家の中に響いていた。そんなふうにしたら壊れるよって、何回言ったらわかってくれるのやら。聞かせる相手のいない溜息を吐いて、眺めていた母国のレシピ本を閉じる。無造作にテーブルの上に放ってソファから立ち上がろうと力を入れた瞬間、居間の扉がこれまた思いっきり開け放たれた。
「お帰りなさい、ヴェネチアーノ」
「ただいま、!はぐはぐー」
「はいはい」
帰宅の挨拶と言わんばかりに飛び掛ってくる身体を両腕を広げて迎える。出逢ったころはどうしたって慣れなかったこの国の挨拶を、こんなふうに受け入れられるようになったのはいつだったっけ。いつの間にか手馴れてしまった仕草でヴェネチアーノの背中に腕を回す。ぎゅっと音でも鳴りそうなくらい籠められた腕の力が、少しだけ痛かった。だけど、頬に触れる軽いリップ音は綿毛みたいに柔らかかった。
たっぷりと長い時間をかけて私の体温を奪い取ったヴェネチアーノは、えへへーと頼りなく笑って身体を離した。それから、またばたばたと小走りに寝室の方へと向かう。走りながら羽織っていたジャケットを脱ごうと躍起になっている後ろ姿を見送っていたら、腕が途中で引っ掛かって「あれ?」と慌てる声がした。まったくもう、ちゃんと止まって脱がないからだよ。ヴェネチアーノは私より何歳も年上なのに、要領の悪いところが多いから不思議だ。昔は、長生きすればするほどなんでも上手くできるようになるって思ってたけど、そんなこともないのだと、ヴェネチアーノたちと知り合ってから実感した。要領のよさって、年齢とは関係ないみたい。
扉の向こうへ消えたヴェネチアーノの背中を見送ってから、キッチンに向かう。ちょっと申し訳ないとは思ったけれど、サーバーに残ったコーヒーを温めてカップ二つに注いだ。白い陶器から浮かび上がる湯気が、ゆらりと空気にとけて、消える。どれくらい、それを眺めていたのかな。気が付いたら、部屋から戻ったらしいヴェネチアーノが背中から抱きついてきていた。
「ヴェネチアーノ…動けない」
「えーだってが動いてなかったんだよ」
「今、コーヒー入れてたの」
はい、と黒い液体がたっぷり波打つカップをヴェネチアーノの眼の高さに掲げる。片手で私の腰を抱いたままそれを受け取ると、頭上で「ありがとー」と声がした。
御礼を言うくらいなら離れてほしい。そんな私の虚しい願いが伝わることはなく、一口コーヒーを飲み込んだヴェネチアーノは、カウンターにカップを置くともう一度両腕で私の身体をしっかり抱きこんだ。
「今日はね、ドイツとアメリカのところにいってきいたんだーそれとなく日本のとこのポチとフィンランドのとこの花たまごのこと話してきたんだけど…上手く動いてくれるかなー」
「どうだろうね。興味持ってくれるかもしれないけど、さすがにお友達のペットを実験するのは気がひけちゃうかもしれないね」
「えーそんなの困るよー!」
「でも、解剖とかされちゃったら、ヴェネチアーノだって寝覚めが悪いでしょ」
頭の上でぶすっと頬を膨らませている様子が眼に浮かんで、こっそり口元が弛んでしまう。
否定とも肯定ともとれない声音でヴェーと彼特有の謎の鳴き声を発して、ヴェネチアーノの顎が頭のてっぺんに乗っかった。重い。重いよ、ヴェネチアーノ。吐き出そうとした文句は、なぜか咽の奥に引っ掛かって空気に触れることはなかった。
「イギリスのとこにあった魔法書ってやつも全然役にたたなそうだったし。オーストリアさんとこもスペイン兄ちゃんのとこもダメだったし。あ、今度は中国のとこも行ってこようかな。東洋文化はまだ調べてなかったかも」
「そういえば、私の国でも人魚を食べると長生きになるって昔話があったかも」
「ほんとっ?んーでも人魚ってどこにいるんだろう」
私は想像してみる。
たとえば本当に人魚が見つかって、その尻尾の部分をちょん切って、煮つけでも作るみたいにフライパンで調理してお皿に盛り付ける。人参グラッセとクレソンとジャガイモが添えられたディナーを前に、ナイフとフォークを構える私。人魚の肉は白身だろうか、赤身だろうか。味は、美味しいのかな。案外筋肉質で固かったりするのだろうか。できるなら、料理上手なヴェネチアーノかフランスさんに調理してほしいな。
そこまで考えて、私の中に「人魚を食べる」ことに対する抵抗が一切存在しないことに気が付いた。ああ、そっか。お腹の辺りに回されたヴェネチアーノの腕に手のひらを重ねて、確信する。私もヴェネチアーノとおんなじくらい、切望しているんだってことを。
「人魚がダメだったら、今度はイギリス脅して禁書ってやつ見てくるよ。あいつ、あれだけ魔法魔法って言ってるんだから、絶対みつかると思うんだ」
「うん、期待してるね」
私たちのしていることは、きっと正しいことではない。
誰も肯定なんかしてくれないし、誰にも認められないし、誰にも協力なんてしてもらえない。
ドイツさんが知ったら羽交い絞めにしてでも止められるだろうし、日本さんにばれたら連れ戻されて、二度とヴェネチアーノに逢うことは許されない。そんな未来を想像することは、簡単だった。
きっと私が、誰か他人に同じことを相談されたら、全力で止めるんだろう。恋なんて、愛なんてものに、そんな価値なんてないって、言い聞かせて説得する。
けれど、いざ私の中に産まれたこの感情に、嘘を吐くという選択肢は、どこにも産まれてなんてこなかった。
どうしてヴェネチアーノだったんだろう。女の子が大好きで、子どもっぽくて、へたれて、お調子者で、スキンシップばっかり好きで、いつだって私の言うことなんて聞いてくれない、ちょっとエッチなヴェネチアーノ。
私よりもうんと長い時を生きてきて、たくさんの別れと出逢いを繰り返してきた、私とは違う時を生きるひと。
彼の一生に寄り添うことも、一緒に消えてなくなることも許されない。そんな私のことを、世界よりも彼の国の人々よりも大切だと言ってくれた、たったひとつの存在。
「それでも方法が見つからなかったら、今度は戦争を起す方法を考えなきゃね。北イタリアの人も、文化も、国土も、歴史も全部、消えてなくなるようなやつ」
「…そうだね。でも、それは最後の手段だよ」
「もっちろん。だって俺、ずっとずーっとと一緒にいたいもん」
「私も、おんなじだよ」
誰に否定されてもいい。世界に邪魔されても構わない。
利用できるものならなんでも利用するし、誰かを傷つけることになっても迷わない。
国と国が滅びて、百万の命が消えてもいい。
ただひとり、ヴェネチアーノがいるのなら。
みんなに祝福されるような、めでたしめでたしでなくてもいいの。手のひらに伝わる、少し低いヴェネチアーノの体温を共有しながら、確かに想う。
「『かみさま』になんて、絶対あげない。ずっと、俺と一緒にいてね」
「約束するよ。ずっと、一緒に倖せでいようね」
ぎゅっともう一度力が籠もったヴェネチアーノの腕に左手で触れたまま、ふと思い出して白いカップに右手を伸ばす。
ゆらりと揺れた黒い水面は、にごって底なんて欠片も見えない。一口、流し込んだ液体はぬるくて、喉の奥に纏わりつきながら落ちていく。
流れ落ちていったどろりとしたそれは、酸っぱくて、苦くて、渋くて、少しだけ甘ったるい味がした。