世界中の人口が俺と君のふたりだったらよかったのに。

ことの最中にそう零したら、は潤んだ双眸をパチクリさせて、困ったように笑った。その笑顔が、まるでだだをこねる子どもの頭を撫でるみたいだったから、途端に俺の中のどこか奥の方がチリっと焼け焦げた音がした。今頃、ローマは燃えているのかもしれない。
俺の下で繰り返される荒っぽい呼吸。は知らないかもしれないけれど、このままの息が止まってしまえばと、俺はいつだって考える。俺以外に誰も知らないの時が、ここで止まってしまえば。そうしたらきっと、艶っぽい表情も、愛らしい声も、温かな中も、俺だけのもので終わるから。
を疑ってるわけじゃない。俺以外のやつと付き合ってるとか、好きな気持ちが消えたなんてことは絶対に有り得ない。けど、それが永遠なんかじゃないことだって、俺は知ってる。滅びない帝国がないように。沈まない太陽がないように。果たされない約束があるように。が俺に抱いてくれている感情が、薄れてしまう日が、くるのかもしれない。

「フェリ、くん?」
「ねえ、
「なに?」
「…俺ね。今すごーく、倖せなんだ」

この倖せが崩れてしまうかもしれない未来を、この手で壊してしまいたいくらい。
そんなことを口にしたら、はどう思うだろう。俺がそれだけを愛してることを喜んでくれるかな。それとも、狂人でもみるように怯えるのかな。もしかしたら、俺をこんな風にしてしまったのは自分だと、罪悪感を抱くかもしれない。哀れんで憐れんで、同情してくれるかもしれない。
頭の中には何人ものが現れたけれど、結局どれもしっくりこなかった。今、目と鼻の先で不思議そうに瞬きを繰り返す。このは、なんて言葉をくれるんだろう。両手で頬を包んで、唇に噛み付く。声と声とが繋がったまま、籠もった音で紡いだ。頭の奥で聞こえる水音。手のひらが捕まえた心音。耳に痛いほどの静穏。意味なんて、きっと通じていない。それでよかった。意味なんて、通じなくていい。今があれば、それでいい。
繋がった息が離れて、俺の呼吸との呼吸が別々のものになって。こつんと額と額をくっつけて、の真っ黒な瞳を覗き込む。他の女の子だったら、何を考えているのかなんて手に取るようにわかるのに、どうしてのことになるとわからないんだろう。ねえ、教えてよ。どうしたら君のこと、全部見つけられる?こんな風に不安にならないくらい。頭の中にすぐ本物の君を描けるくらい。終わりなんてないんだって、疑わずにいられるくらいを、信じるために。

「今、誰のことを考えてますか?」
「え?」

不意にかけられた声に、いつのまにか歪んでいた視界の焦点が、もう一度黒い双眸に集って。どろりと濁った暗闇が目の前いっぱいに広がった。黒、黒、黒。夜の色。烏の色。ジャッポーネの髪の色。拳銃の色。の色。
吸い込まれていった呼吸は、闇に呑み込まれてしまったのか。目蓋を閉じずに口付けるの瞳は、俺の中の全部を呑み込んでいくみたいに底なしだった。片足だけでも踏み込んだら、もう絶対に逃れられない浮き上がれない。もがけばもがくほど、沈んでいく、海。深い深い海の底。深海の色。俺の見たことのない世界。そこはいったい、どんな場所なんだろう。長い一瞬のあとで、離れていく黒。遠のいていく底なし。そこはきっと、の世界だ。

のこと、考えてたよ」
「うそ。フェリくんは、うそばっかり」
「嘘じゃないよ。の世界のことを考えてた」
「私の…世界ですか?」
「うん。どうしたらのいるところに、俺もいけるのかな、って。どうやったら、いつでものことがわかるようになるのかなって、考えてたんだ」
「…なんですか、それ」

だっての世界はとても遠くて、はるか深くて。いつか君がそこにかえってしまったら、俺は生涯そこに辿りつけないかもしれない。そうしたら俺は永い生が終わってもに逢えないし、と俺の永遠もそこには届かないかもしれない。
だから、今ここでとめてしまえたら、きっとそれは素敵なことだと思うんだ。そう言ったら、の世界を細めてにっこりと笑った。

「どうして笑うの?」
「やっぱりフェリくんが、うそつきだからです」
「俺、嘘なんかついてないよ」
「いいえ、うそつきです。だって、私のことを考えていたって言ったのに、違うことを考えてたじゃないですか」
「違うこと?」

微笑う。哂う。嗤う。どれも当てはまるようなたくさんの感情を乗せて、は笑った。細くなった黒はの世界への入り口を狭くしたけど、余計にその色が濃くなったようで、俺はドキリとした。黒。黒。黒。死の色。生の色。悪の色。正義の色。有の色。無の色。どっちつかずの色。全てを吸い尽くす色。それが、の色。

「ほら、今もまた違うこと考えてる」
「違くないよ。今も俺は、のことを考えてる」
「でもそれは、今の私のことじゃないです」
「…なに、それ」

口にしてから、まるでさっきのやりとりを鏡映ししたみたいで、咽が詰まる。は細くなった瞳を丸く戻して俺を見上げてる。の世界は、開かれている。そう、いつだって。

「ちゃんと私のこと、考えてくれなくちゃ、ダメですよ」
だって、ちゃんと俺のこと想ってる?」
「当たり前じゃないですか」
「それって、どのくらい?」
「そうですね…」

ほんの少しだけ黒目を宙に彷徨わせて、は口角を上げた。もしかして、俺もいつもこんな風に笑ってるのかな。鏡映し。何でも吸い込む黒の世界。ほんの少しだけ、そんなことを思った。

「今ここで、北イタリアが地図上からなくなってしまえばいい、って本気で考えてしまうくらいに、想ってますよ」

妖しげにほくそ笑むは、悪戯好きな子どもみたいだった。だけど俺には、どんな女の子のどんな表情よりも愛おしくみえて、そこに飛び込まずにはいられなかった。ううん、違う。もう、ずっと前に飛び込んでた。だから今度は、もっともっと深い場所へ、自ら沈んでいくんだ。黒の世界。の世界に。この世界を捨てて、二度と浮上しない場所へ、落ちていく。
衝動的にキスを落とした目蓋を閉じて、はくすぐったそうに身体を捩る。片方だけ開かれたたくさんの意味を含んだ色の瞳はやっぱり綺麗で、俺は何度もキスをする。ひとつ口付けを落とすたび、俺の中での世界が増えていく。いつか俺の世界なんて、全部塗りつぶしていく色。少しの傷みと、温もりと、綺麗な色と、汚いものをたくさん詰め込んだ世界が、広がっていく。これを愛と、きっと人は呼ぶんだろう。だから俺は、緩む口元を引き締めることすら放棄した。
ああ、きっと。今日も、ヴェネツィアは晴れている。




( 君を永遠にひとりじめできる瞬間。それが、きっと世界の終わり )